生活

日々の生活のことを書きます

写経で文章がうまくなりたい6 週刊誌の皇室記事は面白い

 写経をして文章をいろいろと分析してみてはいるが、自分の書くものに生かされているかどうかは全くわからない。まあ、細かいところには気が付くようになったかもしれない。ひらき、とじのバラツキ、誤字とか。ウェブメディアでも校閲が入っているところとそうでないところはなんとなくわかってきた。

 そんな内容と関係はないのだが、最近小室圭氏がらみでまた、皇室報道がにぎわっていたので、週刊誌や週刊誌系のウェブ媒体に何誌か目を通してみた。写したのは文春オンラインの記事『「2年前から年賀状が届かなくなりました」小室圭さんと出逢って変わられた眞子さま《8つの証言》「幸せな時も不幸せな時も」結婚に邁進される芯の強さの原点』。記事の内容はタイトルの通りで、小室圭氏との結婚を強引に進めている眞子さま、その変遷はどこにあったのか、そして芯の強さの源泉には何があるのかを関係者の証言で追ったという記事。内容はそのままなのだが、面白かったのは文章の書き方。必ず眞子さまは漢字ではなく”さま”で統一、小室圭氏は”小室圭さん”で統一、そのほか基本的には謙譲語や敬語で綴っていくという”ルール”が徹底した内容で、文体自体は週刊誌らしからぬお上品なものなのになっていた。知っている人には当たり前なのだろうけれど、個人的には初めての発見。

 また、文章のルール(勝手に皇室ルールと呼びながら写経していた)を守りつつも、何とか週刊誌の記事としての面白さを出そうとしているところがなおよかった。書き方を間違えたら、出禁、訴訟、どころかとんでもないことに発展しそうなものなので、さすが文芸春秋社といった感じ。もちろん校閲さんは何度も入るのだろうけれど、こういう外したら絶対アウトの枠を守りつつ、いかにうまい文章を書くのかが求められる仕事はしびれるだろうなぁ、新卒の編集者さんとか若手の記者さんとかが、こういう記事を毎週書いていたらそれはそれは文章がうまくなるんだろうなぁ、と小学生のような感想を抱きながら最後まで読んでしまった。もちろん、文章のうまい人、エース記者、編集者にしかこういう記事を書く役割は回ってこないのかもしれないが。

 それはそうとして、小室圭氏と眞子さまの話題に対する世の中マスコミの熱狂具合はは何というか腑に落ちないところもある。個人的には平々凡々の一市民の非正規雇用者なので、小室氏、ようやった、一発当てやがったな、おい! という気持ちと、あいつに税金が使われるかもしれないのは癪だな、という気持ちと、別に皇室の外に出るっつってんならもう放っておけばいいじゃん、いい歳なのに、と思う気持ちが3分の1づつくらいでこの話題を見ているからだ。要は、自分の生活には全く関係のない話題なのでどうでもいいと思っている。まあ、こういう話題でにぎわっているうちはまだ日本も平和だろうけれど。

おわり

写経で文章がうまくなりたい5 cakesのホームレス記事について

 cakesに掲載された夫婦のライターユニット「ばぃちぃ」氏の執筆記事がSNS上で炎上した騒動からだいぶ日もたった。炎上させたい人、ちゃんと議論をしている人、研究者、ライター、編集者など様々な視点から意見も出てきたように思うので、ここいらで個人的に気になったものをまとめてみる。

 というわけで、以下の二つの記事を写経してみた。

 一つは騒動後比較的すぐでた、中国天安門事件のその後を描いた『八九六四 天安門事件は再び起きるか』で第50回大家壮一ノンフィクション賞を受賞したことでも知られる、ノンフィクション作家・安田峰敏氏が文春オンラインに寄せた『キラキラ夫婦がつるし上げ…豚解体風呂とホームレス記事”炎上”事件から考える言論の自由』という記事。

 タイトルは煽情的だが、安田氏が今後公開する予定のアパートの風呂場で豚を解体し逮捕されたベトナム人らの仲間から話を聞いたルポ作品や八九六四など氏の作品を引き合いに出し、そもそもルポ、ノンフィクションとはどういう仕事なのか、出せば必ず誰かを傷つける、不快思わせる可能性がある表現物に対して、作者やそれを掲載する媒体側はどのように考える必要があるのか、そして今回の炎上騒動で時に罵声すら飛ばしながら、ばぃちぃ氏やcakesに対して批判を寄せた研究者や作家らの行動のぜひについて、氏の考えをまとめたものだった。

 大まかに氏が誌面で記した考えをまとめると、作品の良し悪しに関する議論は全くの別(安田氏自身もばぃちぃ氏の記事の出来が良いとは語っていない)として、すでに名のある書き手や本職の研究者たちが、差別的な表現や取材手法を用いず作られた作品を執筆者を人格否定するような言説まで用いて貶める、表現の場所すら失いかねないような攻撃までするのはおかしいのではないか、自分たちの頸を絞めているのではないか、ということだろう。

 作品の内容について言及したものには、ルポライターで『再貧困女子』などで知られる鈴木大介氏が現代ビジネスに寄せた『炎上ホームレス記事、何が「問題の核心」なのか本職ルポライターが語った』などがあった。

  こちらはばぃちぃ氏の作品のどこに問題があったのかを鈴木氏のサブカル誌でいわゆる裏モノライターとしてホームレスや裏稼業人の取材者をしていたところから社会派ルポライターに転じた経歴を織り交ぜながら、氏の考えについて語り、そして、そもそも作品の出来以前にあるウェブメディア界隈の問題について記したものだった。

 鈴木氏によれば、従来サブカル誌での需要は”見世物小屋的な露悪趣味”のものあるが、実利に沿ったものもあったそう。つまり、住所がないのに携帯をどう使えるようにするのか、仕事は(ホームレスはジョブレスではない)という明日、もしかしたら使える知識を伝えるという目的もあったのだという。鈴木氏自身、記事執筆のための取材活動に純粋な学びを感じ取っていたという。そして当該ばぃちぃ氏の記事にもそうした憧憬や知的好奇心が感じられるし、露悪趣味は感じられない、けれども、彼らの記事は肯定という。つまりそこから先に彼らがいわゆる普通の生活から断絶するに至った、時に正視できないほど切ない彼らの個人史にまで踏み込み、その一歩先を見据える姿勢が書き手として足りていないと指摘する。

 また、もう一つの大きな問題としてあるのが、ばぃちぃ氏の記事に賞を与えたcakesの姿勢だ。果たして賞に足るべきか、そもそもメディアとしてこの記事を載せるべきか、書き手の姿に共感できたのであれば、記事が載せるに足るクオリティになるまで指導するなり、道筋を示すなりするのがメディアの役割ではないかと鈴木氏は指摘している。

 確かに紙のメディアと違い、ウェブメディアでは編集者や校閲、査読者の不在を指摘する声も大きい。そういった部分も今回の問題の背景にはあるのかもしれない。

 記事の内容はいまいちだが、越えてはならない一線を越えてはいないのにあそこまでたたかれるのはおかしい。そもそもホームレスの支援どころか、町中で話しかけようともしない人間が燃えているときだけしたり顔で出てきて、当事者に石を投げるのは偉そうでむかつく。そう、個人的にも思っていたので、自身の気持ちが言語化されたような記事だった。ただ、今回の記事にまつわる騒動に関しては一抹の不安というか、全く別の観点から嫌な気持ちもしている。

 正直なところ、ばぃちぃ氏の記事は特段怒られるような内容もないし、インターネットにはよくあるような記事のように思う。その題材の一つがホームレスというだけで、ここまで大きく取り上げられてしまうことの方がよほど問題にも感じた。

 切実に明日は我が身と感じている人間がおり、他方ではその生活や個人史を気にすることもなく、ホームレスの一側面だけを取り上げてコンテンツ化することをよしとしてしまう人間もいる。その中間にいる人間が少なくなったのか、社会の断絶が一層進んでいることの一面が垣間見えた問題なのではないかとも感じてしまった。世知辛い世の中になったものである。

 

 

 

 

風呂なしアパートに住む 雑感 流行り病で詰む生活に

 現在私は都内で、風呂なし家賃3万7000円(管理費込)の部屋に住んでいる。なぜかと言えば、非正規雇用の身の上でいつクビを斬られてもおかしくなく、固定費を下げていれば、この先来るであろう、失職も乗り切れる。そんなことを思ったからだ。いざ探してみたところ、条件のいい物件が見つかったので、勢いで入居を決めてしまった。住んでみて1年程度たったので雑感を記しておくことにする。

 結果から言えば、もう少し熟考すべきだったと思っている。

 まず簡単に、今住んでいる風呂なしの木造アパートのスペックを記す。場所は東京23区内。最寄り駅は新宿にほど近い、JR中央線某駅。徒歩5分圏内の住宅街の中に住んでいるアパートはある。

 立地は悪くない。単に駅に近いだけでなく、周囲に多数のスーパー、飲食店がある。銭湯も徒歩5分圏内で3件。10分ほど歩けば、10件ほどある。また、徒歩5分圏内に数件ジム(エニタイムフィットネスなど)もある。風呂がなくても体を洗う施設はアパートの近くにたくさんある。

 間取りは1K、広さは約20㎡、エアコン、給湯器はなし、トイレは和室、キッチンは2口コンロがおけない程度の広さといったスペックである。ちなみに風呂も給湯器もないので、ガスは契約せず、料理はもっぱらIHコンロかカセットコンロで済ませている。

 壁は薄い。外の音、大声でしゃべっている人間の声が聞こえてくる程度、上階の住人の生活音は咳の音まで聞こえてくると言った感じだ。

 ただ、右隣は空室、左隣は個人事業主の方が倉庫のように使っていて、平日はほとんど在室していない。だからそこまで自分の出す騒音も近隣住人の出す騒音も気にしなくてすんでいる。ちなみに大家さんと管理会社には内緒だが、趣味でギターを弾いている。エレキギターの生音程度なら全然問題ない。(もちろん、時間と音の大きさには十分注意しているが)

 人によっては我慢ならない部分もあるかと思うが、23区内で駅近の物件、これで3万円台の家賃は結構安い金額だと思われる。ちなみに下北とかハイソな街だと風呂なしでもうちょっと狭い部屋でも家賃4万円台の物件があったりするので、風呂なしの中でもそこそこお得な物件である。もちろん、告知義務事項はなかった。

 風呂はどうしているのかというと、近所にあるエニタイムフィットネス(月額7000円強)に通って、済ませることがほとんどで、疲れたときや少し贅沢をしたい時に銭湯に行くようにしている。だいたい月にかかるのは1万円ほどだろう。

 こんな環境で1年過ごしていた。感じたメリット、デメリットは事項で示すことにする。

 

メリット 生活費が安いのでそれほど給料がなくても快適

 毎月かかる固定費が安いので当たり前ではある。月の生活費は無理に節約をしなくても10万円ほどですんでいる。

 細かく見ていこう。先ずは食費だ。

 立地のいい場所で物件が見つかったからこそではあるが、スーパーの選択肢も多い。スーパー以外に八百屋肉屋魚屋もある。食材を探すのもそれほど苦にならない。その分、自炊の選択肢も増え、食費も自然と削れている。月にかかる食費は外食を入れて無理に節約をしなくても、4万円ほどである。多少贅沢をしても6万円くらいですんでいる。

 水道代はトイレと手洗い、調理をするとき、インスタントの味噌汁やラーメンを作る時に使う分くらいしかかからないので、この一年で基本料金を超えることはなかった。

 電気代は若干勉強不足の部分があった。どうせそんなに使わないだろうと高をくくっていたのだが、部屋の壁の薄さを甘く見ていた。寒すぎたのである。そのため、冬は電気ストーブ代が高くついた。しかも基本料金を超えた分の従量課金制なので、一人暮らしなのに月に1万円以上とかなり高額に。ただ、基本的にはほとんど使わない生活なので、かかっても月に2000円ほどであることが大半だった。ここ1年で慣らすと平均4000円ほどになった。

 通信費はパソコンやゲーム機の接続に使うWi-Fiが月に4000円弱。スマホはキャリア回線を利用しており、5000円ほど併せて1万円くらいである。

 先ほど説明した風呂の1万円と合わせると、毎月必ずかかる金はだいたい10万円弱というわけである。身近に生活費を比べられる友人がいないので(実家暮らしや学生であるため)、一概には言えないが、結構少ない方だと思う。毎月特に気にせず本を買ったりゲームソフトを買ったりしても、貯金はできている。生活費もだいたい変わらないので、当面のお金の心配はない。特に節約を意識しなくても、別段家計簿を付けなくても、こんな感じである。やはり賃料の安い風呂なしアパートに住んでいるからだといえる。

 

デメリット たくさんある

 正直、この1年を振り返ると、先ほど挙げたくらいしかメリットがなかった。勿論、あげようと思えば、頭をひねればいくらでもある。家に風呂がないから、東京各地、場合によっては地方の銭湯に顔を出すことができる、銭湯に詳しくなれる。だとか。あこがれの町にやすく住めるなんてこともいえる。

 ただ、上にあげたものは、見方によってどうとでも変わるし、やはり強がりだろう。風呂はライフラインである。ないとやっぱり大変なのである。

 

デメリット 風呂がないと生活がつむ場合もあるぞ

 この言葉に尽きる。風呂のないアパートを自分で選んでおいて何だが、風呂のない1年はつらかった。最初こそ上で説明したように「銭湯選び放題だな、楽しむぞ」「ジムに毎日通って体を鍛えるのもありだな」とか無邪気に思っていたのだが、私は入浴という行為を甘く見ていた。

 人は仕事をしたり、何か忙しく動く、ストレスがたまると疲れる。疲れればいろいろなことおっくうになる。食事を作るのが面倒になる。場合によっては食事するのも面倒になる。ただ、食事はとらないと当たり前だが死ぬし、人によってはストレスを解消する役目もあるだろう。よほどのことがない限り、取らないという選択肢が浮上することはない。少なくとも私の場合はそうだ。

 それに対して入浴である。入らなければ体は汚くなるが、よほどのことがない限り、この日本において、風呂に入らないことが原因で死ぬことはないだろう。社会的には死ぬかもしれないが、2,3日くらいはごまかしもきく。それでも家に風呂があれば、まだ何とかなる。

 家に風呂がある場合、おっくうなことと言えばせいぜい、湯舟に十分たまるまで待つ、着替えを用意するくらいだろう。まあ風呂掃除もあるかもしれない。湯舟に行くのが面倒という場合もあるかだろう。それでも家の中である。エイヤとやればすぐにすむ。湯をためるのが難しければシャワーでもいい。

 だが、家に風呂がないと、まず風呂に行くための準備をしなくてはいけない。着替えを用意する。日常使いの銭湯やジムはタオルやせっけんをおいていない場合には一式が入ったバッグを用意する。場合によっては風呂に入るために着替える。そして外に出て、歩いて銭湯に向かう。到着してからも面倒だ。ジムによってはシャワーのみの利用は禁じているところもある。そうすれば形だけでも運動をしなくてはいけない。

 時間もかかる。家に風呂があれば、急げば10分15分で住むかもしれないが、銭湯の場合は通うだけでも時間がかかる。しかも、自分一人が使っているわけではない。湯舟や洗い場、脱衣所で、人を待たなくてはいけない。これもまた面倒だ。

 要するに当たり前だが風呂がないと入浴という行為のハードルがずいぶんと高くなる。そして、風呂に入らないという選択肢を選ぶ順位も必然的に高くなるのだ。

 私は現在、人と会うことが多い仕事に従事しているので、それでもなんとか風呂に入ってはいたが、在宅が多い仕事だったらどうだっただろうと考えてしまう。2,3日は平気で風呂に入らなかったかもしれない。

 また、ここ最近のコロナ禍である。みな苦境にあえいでいると思う。風呂がない生活もより大変になった。ジムは非常事態宣言下で休業になってしまい、私の生活の中のインフラの一つが断たれた。もちろん銭湯は公衆浴場法という法律もある通り、公衆衛生に一定の役割を果たすことからクラスターが発生するわけでなければ営業を続けていたが、それでも痛い。銭湯に入りたいから入るのと、銭湯しか選択肢がないのは全く違う。

  私はまだ、銭湯が近所に数件あるという立地に住んでいたからよかったが、銭湯は近所になく、もっぱらジム頼みだった場合を考えると恐ろしい(そういう物件も視野に入れていた)。水をコンロで沸かして体を拭く、という手段を取らざるを得なくなった可能性もある。

 やはり風呂はインフラ的な側面がある。家になければ、社会情勢によっては結構簡単に生活が破綻してしまう可能性がある。人が人らしく振舞えることの大事さ、それを維持することの難しさを私は甘く見ていた。

 

カネがあるなら無理して住む必要はない

 デメリットなんてあげているのだが、実際、コロナの流行は別として他の要素は冷静に考えれば気が付きそうなものである。だが、私は意外と何とかなると思っていたのだ。というのも、私は物心ついた時からいわゆる文化住宅(トタン屋根のあばら家みたいなやつ)で暮らしていて、エアコンも給湯器も家で初めて使えるようになったのは20代を過ぎてから。不便な生活も問題ないと思っていた。だが、思えばそんな生活でも風呂が絶えることはなかったので、その大変さに思い至ることができなかったのだ。

 

 今思い返せば私は単に安いから今のアパートを選んだだけでなく、アドレスホッパーやらミニマリスト、少ないお金で身ぎれいに暮らす人間にあこがれていた部分もあったと思う。だが、考えてみれば彼らはあれで飯を食っているのである。いうなればプロだ。こっちはアマチュアだ……。

 結局、ないものはない。デメリットはしっかりとある。とはいえ金はないのでおいそれと今の生活を変えることもできない。今後もうまく付き合っていくのか、ちょっと無理をして、風呂のある部屋に住み替えるのかは要検討中である。

 金が払えるのであれば無理して住む必要はないのかもしれない。そんな当たり前のことに、1年ちょっと住んでやっと思い至るようになった。悲しい……。

 

銭湯図解

銭湯図解

 

 

 

 

何故メルカリにはお宝をゴミのような値段で売る人間がいるのか

 メルカリが好きだ。なぜかというと気軽に出品できる結果、商品の知識をほとんど知らない人間がバカみたいな値段でお宝を売ることがあるからだ。

 昨日もとんでもないものが売られていた。メルカリを見ていた楽器好きなら恐らく全員オオっとなったと思うのだが、いわゆるビンテージもののギター(FenderのStratocasterタイプ 売られていたものと同時期の楽器の価格はこちら)が一般的に売られている相場価格と二けたほど違う、お得どころか捨て値といっていい価格で売られていたのだ。びっくりである。

 もちろん、服や絵画などでよくあるように、ギターにも贋作はあり、よく問題になったりもする。件のギターはといえば、出品画面に載せられた画像から見られるシリアル、ヘッド形や記載されたロゴ、ボディの塗装、おそらく、購入時についていた古いケースなどの特徴、祖父から譲り受けたという所有に至った経緯、そしてつけられた値段*1おそらく本物だと思われる情報が詰まっていた。

 車が一台買える、地域によっては土地付きの家を買えるくらいの白物なので、実際に専門の楽器やで判断する必要はあるだろうが、本物だろうと思う。もちろん、私が見つけたころにはすでに売られていた。出品されていた時の閲覧者はほぼ数人、ほとんど秒に近いくらいの時間で売れたんじゃなかろうかと思う。私も販売済みになる前に見つけていたら、とりあえず、購入していたと思う。

 今回のような大当たりはほとんど見たことがないのだが、手軽に出品できるゆえか、メルカリにはお宝がたびたび出品されている。明らかにプレミアのついているゲームソフトとか、ギターで言えば20世紀初頭からギター制作を始め数々の有名アーティストがそのギターを使用してきたメーカーGibson*2のギターが、ロゴが経年により取れ掛けGがCに見えるような状態になっていたことから「メーカー不明 Chibson」のギターとしてこれまた桁がひとつ違うような値段で売られていることもあった。こうしたお宝は、インターネットで検索すれば、ものの数分でわかるような情報すらなく出品されていることがほとんどだ。おそらく身内の趣味の品をどういう品か知りもせず、売り払うからこういうことになるのだろう。

 正直に言えば、そういう事情があることがわかりながらも、購入したものもある。だが、思いとどまってしまったことがほとんどだ。なぜかと言えば、自分の趣味の品もそうやって家族なんなりに売られる可能性が十二分にあるからだ。もし自分が、と考えると本当に恐ろしい。

 しかも、メルカリはシステム的にこういう問題には強くない。メルカリで付けられる値段は基本的に本人が値段をつける仕組みだ。システム上、簡単に落札相場を調べることもできない*3うえに、基本的にその値段で即決扱いだ。本人が売れる前にいじらなければ、それ以上安くも高くもできない。オークションのようにつけた値段から買いたい人が値段を釣り上げていくような方式ではないのだ。

 もちろん、売れた後、都合によって出品者がキャンセルはできるようになっている。この値段で売るのは明らかに損だとわかったあとも対処はできる。だが、本人に全く知識がなく、知識を有する人間が身近にいなければ結局そのままだ。

 

 インターネットの集合知により、全く物のことを知らない素人同然の人間でもそこそこの知識を得られるようになった。私が趣味のギターのために集めた情報もほとんどがインターネットである。以前お宝を発見する場所としてあったリサイクルショップもインターネットを活用し、専門店と何ら遜色のない値段をつけるようになった。

 一方でインターネットで数分調べればわかる当たり前の相場を知りもしないで、インターネットで物を売るというはたから見ると不思議な人が出てきたのも事実である。インターネットによって利便性がまし、生活の質が向上するといった話があった。だが、メルカリ一つ見ていても、結局これまで通り、知識を知っている人間とそうでない人の差はそこまで変わらず、逆に便利になったことで、そうした差が余計に浮き彫りになっているのではないかとも思ってしまった。もちろん、私の知識がない側では、私がそうみられることも当然あるだろう。

 それはさておき、件のビンテージストラトを売った人はどうしているのだろうか。周りに知識のある友人でもいればいいのだが……。

 

終わり

 

 

*1:今はビンテージといわれそこそこの価値がついているが、数十年前は普通に中古の楽器として売られていた時期もあり、その時期に十数万とか20万くらいで売っていたものを祖父が買い、そのエピソードを聞いたのであれば、まあそのくらいの値段にするよな、という値段がついていた。

*2:日本だと奥田民生松本孝弘とか、海外とかだとジミーペイジとかが代表的な使用アーティストなんだろうか

*3:ヤフオクなどは直近の落札相場を検索できるシステムになっている

写経で文章がうまくなりたい4 山谷のけんちん汁屋は町の盛衰をどう見ていたのか

今日読んだのは最近女性自身で掲載された記事『

『山谷のけんちん汁店』 84歳の店主が見た日雇い労働者の町の盛衰

だ。

平成の初期から労働者の町通称山谷*1地区でテイクアウト形式のけんちん汁屋『大倉屋』を営む石橋新平さん(84)ヒロ子さん(83)の語りや日常を頼りに、山谷の今に迫る記事。

 

山谷はいわゆる簡易宿泊所*2が立ち並び、日雇いの肉体労働者が集まる街として知られる。高度経済成長期には東京タワーやオリンピック競技場の建設など様々な歴史的建造物を作る際の労働力がこの町から提供されていった。

 

とはいえ、最盛期には数百件の簡易宿泊所が軒を連ね、常時1万人以上の労働者がねとまりしていたという町の賑わいは今は鳴りを潜めている。町の開発により、以前の簡易宿泊所はマンションなどに建て替えられ、労働者たちも4千人足らずにまで減ったという。しかもほとんどが高齢者、そのうちの9割は生活保護を受給しているという。

 

一時期はインバウンドの受容もあったようだが、新型コロナウイルス感染症の影響で、需要は減り、新平さんも記事中で語っているように「すっかり寂しい街になっちゃった」ようである。

 

特に過剰にあおるでもなく、いわゆる知的好奇心に準ずるでもなく、坦々と石橋夫妻の生活がつづられている。こういうのが書けるようになるとよいなと思える文章だった。

*1:東京都台東区北部から荒川区の南端あたりの地域をさす。最寄り駅はJR常磐線南千住、大阪の西成、横浜の寿町とならんで日本3大ドヤ街とも呼ばれる

*2:ドヤとも呼ばれるこちらの方が呼び名としては、広まっているようにも思えるが、あえて、文中では使っていないようであった

写経で文章がうまくなりたい3 アナリストは株の急上昇をどう見ているの?

 仕事が忙しいのにかまけて、写経した内容をブログにあげるのをさぼってしまった。まあ三日坊主にならなかっただけ良しとしよう。

 ここ数日の変化として大きなものはない。ただ、普通に黙読で文章を読んでいるときも、いくらか文章の構造や細かい開く・閉じる、句読点のつけ方には目が行くようになった気もする。まあそのくらいの変化だ。

 最近、コロナ関連かどうかは実際のところよくわからないのだが、バブル期以後ではなかったような株式市場が見られるようになっている。とはいえ実際に景気は回復などしておらず、ニュースを開けばつらくなるような話題ばかり。このような状況をはたして専門家はどう見ているのか。

 気になったので読んだ文章を今日はそのまま写してみた。

 写したのは講談社現代ビジネスでリサーチ会社智剣・OskarグループのCEO兼主席ストラテジスト大川智弘氏が執筆した『コロナで暴落した「日本株を買い漁る人たち』の悲しい末路 』

 正直なところ私の金融リテラシーが低く、辞書を引きながらでないと文意が取れない部分も多かったので、要勉強といった理解度なのだが、そのほかの経済物の記事やニュースなどを見ていると、冒頭で大川氏が

「経済環境および企業業績の見通しが急速に悪化する中で、お上から無知所にばら撒かれて行き場を失った投機マネーが引き起こした急騰相場」

 と指摘していることその通りなのだろう。

 正直に言えばなんだか急に上がっているし、ここでうまく切り抜ければ、バブルの時に土地ころがしで設けた奴みたいにがっぽがっぽもうかるんじゃねぇか、うひひ。

 みたいに思っていたのだ、世の中はそんなにあまくないのである。世情に一喜一憂せず、凡夫は凡夫なりに日々コツコツと生きていこうと思うのだった。

終わり

写経で文章がうまくなりたい2 なぜコーヒーを飲むと調子が悪くなるのか

 2週間ほど前から毎日写経を続けているのだが、文章の構造や句読点の打ち方によるリズムの出し方、そこに対する筆者の考え方みたいなものがわかってきたようなわかってきていないような気がする。写経をする中でじっくり読めるようになったからかもしれないが、実際のところまだ違いを感じられていない。

 やり方が悪いのかも。

 まあ、まだ始めたばかりなので、しばらくは続けてみるか。

 今回は2016年に日経トレンディで出ていた医療ジャーナリストの大西淳子氏が執筆した記事『知っていますか? 自分のカフェインの「安全量」』を写した。

 なぜ、この記事にしたかというと、ペットボトルのコーヒーを飲むとよく吐き気を催したり、頭痛を感じたりするからだ。

 カフェインも立派な薬物である。この記事ではEFSA(欧州食品安全機構)が2015年に発表した安全に摂取できるカフェイン量基準を引き合いに出し、許容量はどのくらいか、そして日常的に我々がどのくらいのカフェインを摂取しているのかを解説している。EFSAの基準によれば成人男性(体重60㎏)と過程で1回の許容量が180㎎、1日での許容量が342㎎だそう。

 ちなみにこの記事では日本の一般社団法人全日本コーヒー協会などのデータを参考に我々が日常的に摂取している食品、飲料にどのくらいカフェインが含まれているのかも表で紹介している。表によれば、缶コーヒーのショート缶1本(内容量190g前後)で、カフェインの含有量が100~150㎎、エナジードリンク1本で22㎎~140㎎だという。

 つまり、缶コーヒー1本でだいたいの場合は安全量に達する、人によっては安全量を超えてしまうというわけである(人によってカフェインへの耐性に差があるため)。

 私がコーヒーを飲んで調子を崩した時のことを考えてみる。そういせば、500mlほどあったのをがばがば飲んでいた。改めて基準と照らし合わせると、そりゃ調子がわるくなる、という話である。 

 とはいえ、コーヒーやカフェインはやる気を出す、眠気を払うため、私にとっては必要なものである。使い方に注意をしろといういうことか。

終わり