生活

日々の生活のことを書きます

ブラッド・レッド・スカイを見た パニックムービーからランボーのような児童が大活躍する笑激の展開に。

 ニューヨークに向かう飛行機が舞台。突如テロリストが現れ、フライトサスペンスムービーが始まるかと思いきや、乗客には「吸血鬼」がひそんでいた!!!乗客がテロリストにおびえる一方でテロリストと吸血鬼のフライトパニックホラーも進行、二つの要素が互いに絡み合う意欲作!!!みたいな感じかな、と思っていたのだが、いざ見てみると、物語が進むにつれ、可笑しな雰囲気になっていく作品だった。

 物語は大西洋を横断している飛行機がテロリストに乗っとられるところから始まる。主人公の女性は、思わず動き出してしまった息子を助けようとし、銃で撃たれてしまう。

 だが、実は女性は北欧の森で吸血鬼にかまれ、吸血鬼の力に目覚めてしまっていたのだ。死んだかに思えた女性は吸血鬼の不死の力で息を吹き返し、テロリストと闘い始める。のだが、この吸血鬼の設定が取ってつけたようなものなのだ。バイオハザードのような細菌パニックものではなく、いわゆるドラキュラ伯爵のような「吸血鬼」の血族がいるらしいこと、かまれると吸血鬼の血族になること、強い意志を持っていないと吸血鬼の本能にあらがえないことなどは表現されるのだが、それがなぜなのか、弱点は、どこまで不死身なのか、意思が弱い人間は化け物になるのなら、主人公は何故人間としての意識を保てているのか、といったディテール。そもそも何故吸血鬼が生まれたのかなどの詳細は一切明らかにされない。そのままテロリストと闘い、その中で感染が広がり機内が吸血鬼パニックに至る様が描かれていく。とにかく置いてけぼり感がすさまじい。

 そして主人公である吸血鬼の子供もおかしい。年端もいかない幼い子供のはずなのだが、動きが鍛え上げられたいっぱしの少年兵のようなのだ。

 まず胆力がすごい。死んだと思っていた母が突如尖った歯に尖った耳、スキンヘッドという醜悪な化け物に変わり果てても「ママ―!!!」と受け入れ、終盤は大人たちが恐怖にしり込みする中、吸血鬼の巣窟となった貨物室に吸血鬼が厭がる「紫外線ライト」を手に単身で乗り込んでしまったりもする。

 また、人の死に恐れを抱かず、ためらいもない。中盤主人公がテロリストのリーダーをナイフで刺し殺すシーンがある。主人公は刺し殺したあと首の傷からしたたる血を見て、吸血鬼の本能に則られそうになったのか、突然苦しみ、その場から立ち去る。そんな母を助けるためなのか、息子は牛肉に刺さったのを引き抜かのようになんの躊躇もなく、テロリストの首元からナイフを引き抜き、母のもとにもっていく。続編で登場した際には「お前くらいの年の頃には、俺はもう何人にも殺してたぜ……」と言いだしそうな雰囲気だ。

 このように、とにかく、この児童がすごいのである。「もう、おしまいだぁ!!!」「どうやって解決するんだぁ!!!」と思う場面でことごとく出てきて、なんとかしてしまう。

 物語は中盤以降、吸血鬼パニックものからランボーのような児童が大活躍する映画に様変わりしまうのだ。もちろん、吸血鬼要素は終盤までずっと残ってはいるのだが、この児童の活躍の前には霞んでしまう。

 テロリスト、吸血鬼、ランボーのような児童、全てがめちゃくちゃになってしまったなかでどうやって収集をつけるのか、と思ってみていると結局最後もこの児童任せですべてが解決してしまう。すべてがクラッシュした後、脚本家がウイスキー片手にやけくそになりながらかいたような物語だった。

 ブラッド・レッド・スカイは正直なところしょうもない映画で、探そうと思えばいくらでも粗を探せる。良質なスリラーものとかグロゴアホラーとかでは決してない。ただ、勢いはよく、B級映画としてみる分には面白かった。期待してみないのがよい作品である。

 

 

バクラウ 地図から消された村 を見た

 

2020年11月28日公開(日本)

フランスとブラジル合作。「アクエリアス」 などを手がけたクレベール・メンドーサ・フィリオ監督の作品である。

Twitterで、全裸の高齢黒人男性と白人女性が画面を見下ろしている外連味たっぷりの本作のシーンを見たことで気になったので視聴した。

 

 (以下、本稿は「バクラウ 地図から消された村」のネタバレを含んでいます。)

 

 

舞台となるのはブラジル北東部ペルナンブコ州の奥地にある小さな村「バクラウ」だ。

ペルナンブコ州は19世紀末から20世紀初頭に大規模な干ばつの被害に見舞われ、苦境に立たされた。その結果、多くの人間が都市部に流出。残った人間を中心に「カンガセイロ」と呼ばれる義賊や独自の秘教を信奉する集団が生まれた場所としても知られる場所だ。*1

バクラウもまた、カンガセイロや秘教を信奉する集団の流れをくむコミュニティであることが、物語の中で徐々に明らかにされていく。

村のとりまとめ役である男「パコッチ」は、一見すると穏やかに見えるが、動画配信サイトで彼と同名の男がヒットマンとして暗躍する動画が投稿される。村人たちに英雄のように慕われている若者「ルンガ」は指名手配犯だ。とにかく物騒である。

また、村人たちは「力を与える」という謎の木の実のようなものを「薬」と称して飲む文化がある*2

物語は長老である老婆「カルメリータ」の葬儀のため、娘が村に戻るところから始まる。カルメリータの葬儀のシーンでは、村医であり、友人でもあった「ドミンガス」がカルメリータの遺骸に向かい「この魔女め!」と罵倒する場面があるのだが、物語後半では、それが、たんなる罵倒だけではない意味を持った言葉であることが示唆される。

見るものの前にはカンガセイロに由来のある暗い歴史、そして前近代的な文化を持つ、バクラウの沿革がたんたんと映し出されていく。しかし物語の導入部分で「バクラウ」は「これは今から少し後の話」であるというテロップが、近未来を扱ったSF作品であることが伝えられている。

一体何を見せられているのか、と思っていると、長老である「カルメリータ」の葬儀と訪れるはずのない「異邦人」の到来を起点にして、徐々に村に不可思議なことが起こり始める。

「バクラウ」という村の名前はインターネットの地図上から突如姿を消し、村はずれにすむ老人ダミアーノを、アダムスキー型UFOのような形をした飛行物体が付け回しだす。そして、村の命綱である給水車のタンクが何者かの銃撃により壊され、使い物にならなくなってしまう。

ついに何名かの村人が襲撃されてしまう。ここで「バクラウ」は近未来世界に取り残された前時代的な風習を遺した村であること。昔から支配者と血で血を洗う抗争を繰り広げてきたこと。そしてバクラウがおかれた行政都市の市長は彼らの存在を疎ましく思っており、排除のために雇われた殺人部隊に村が狙われていることが明らかになってくる。

アメリカ人(グリンゴたち)を中心に組まれた殺人部隊はUFO型のドローンやスマートホンのような謎の機器など、最新鋭の道具を駆使し、村人の動向を把握。電気や電波などのライフラインを絶ち、追い詰めていく。

たいして、バクラウの村人たちは英雄「ルンガ」やその仲間たちの助けや力を授ける「薬」を使い、村の血の歴史を伝える博物館に飾られた、バクラウの民たちの戦いを支えてきた古の「武器」を手にし、殺人部隊に徹底抗戦を試みる。

西部劇を基調としながらも、SF、グロ・ゴア・スプラッター、様々なジャンルを取り入れ、その中で、西洋先進国と第三国の埋まらぬ文化社会的な溝、ブラジル国内の社会問題、失われていく文化への憧憬など様々なテーマを破綻なく扱い、そして最後の血で血を洗うような鮮烈な結末へと導いていく様は見事だった。

独特の魅力を持つ怪作である。

 

 

*1:参照:アウトローの世界史 ブラジルの歴史 のちにおおくのカンガセイロは匪賊、すなわち自らの目的のために、虐殺、略奪を繰り返すものがほとんどだったとする説もあるようだ。 参照文献 ブラジルの歴史

 

 

 

参照文献 アウトローの世界史

 

 

*2:明確な説明はないが、幻覚作用があるような描写もある

屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカを見た

70年代、西ドイツのハンブルクで猟奇的な殺人事件が起こった。ハンブルグにあるとあるアパートで火事が起こり、火元の上階に住む男の家からバラバラにされた女性の遺体の一部が見つかった。遺体の数は合計4体。被害にあったのはいずれも中高年の娼婦だった。

事件を起こした男の名はフリッツ・ホンカ。ハンブルクにある屋根裏部屋のような安アパートに住むホンカは、部屋の壁の中にばらばらにした死体の一部を遺棄し、くさっていく死体と共に暮らしていたという。

骨が潰れ、団子のようになった鼻に斜視、というホンカの面貌。ハンブルクにあるバー「ゴールデン・グローブ」に足しげく通い、そこに通う、40代~50代の中高年の娼婦という体力的に弱く、かつ足のつきにくい人間を被害者に選ぶという狡猾さ*1。そして、一物を食いちぎられることをおそれ、入れ歯の女性ばかりを狙ったという性癖。こういった異常性から当時話題になっただけでなく、日本でも平山夢明の『異常快楽殺人』などがとりあげるなど、様々な作品の題材にもなっている。

映画「屋根裏の殺人鬼 フリッツ・ホンカ」はそんな凶悪殺人事件をモチーフにし、加害者であるホンカの視点から描いた一作だ。

 

映画が始まり、映し出されるのは、壁一面にヌードモデルの写真が張られた小汚い部屋。女が下着が丸見えの姿でベッドに横たわっている。しばらくすると、奥からブリーフ一枚、腰の曲がったフリッツ・ホンカが現れる。

ホンカは重そうに女の体を引きずり別室に運ぶ。ブルーシートの上に寝かせてると、のこぎりを取り出し女ののどもとにあてた。そう、殺した女性の体を解体しようとしていたわけである。

一瞬手を止めたホンカは、何かを思い出したように、レコードを回し始める。かかるのは、ドイツ語で女性歌手が歌う、サルヴァトール・アダモの「ひとつぶの涙」だ。お気に入りの曲を聴いてやる気を取り戻したのか、ホンカは曲のリズムに合わせて、女性の体をのこぎりで解体していく。

 

グロテスクなシーンから始まる本作。殺人鬼ホンカの殺戮ショーが始まるかと思いきや、そこから続くのはさえない中年男ホンカの日常だ。

理由は明らかにされないが、ホンカはアルコール中毒である*2。行きつけのバーゴールデン・グローブ*3に入り浸り、ウォッカのオレンジジュース割りをちびちびやりながら、女をあさる。

ゴールデングローブに集まるのは、男も女も酒に逃げるような理由を抱えた中年ばかり。ホンカ同様みなさえない。だが、決してまともな顔とはいえないホンカは、そんな中においても、酒をおごることすら断られてしまう。ついには女に「小便を顔にかけることすらしたくない」と言われる始末だ。

ホンカの相手をしてくれるのは、金がなく、生活に困った高齢の娼婦ばかり。だが、せっかく出会えた相手とも、ホンカはまともに付き合うことができない。自分勝手にことにおよび、など自分に都合が悪くなると激高し、相手が死ぬまで暴力をふるう。そして、壁の隙間にばらばらにした死体を隠し、ガムテープで蓋をし、酒に逃げ、死体の腐臭がただよう家でそのまま暮らしてしまう。

ホンカはあることがきっかけで、酒をやめ、まっとうに生きようとする。そして、心を通わせられるような女性にも出会うのだが、結局また酒に逃げ、ホンカを笑った娼婦を怒りに任せて殺してしまう。

本作はそんなホンカの生活が、逮捕という破局を迎えるまでを描いていく。いちおうホラー映画になっているようだが、逃げ惑う美女をホンカが襲うようなシーンもなければ、物陰からいきなりホンカが飛び出てくるようなシーンもない。

シリアルキラーのような計算しつくされた殺人行為は行われない。殺人は突発的に起こり、隠ぺいの手段も杜撰だ。死体と共に過ごす生活も、別になにか以上な嗜癖がホンカにあるというよりは、ただただ、死体を処分するのが面倒だから起こってしまったようにも見える。

画面には淡々と、アルコールにおぼれ破滅していく、さえない男の日常が映る。本作はそこにたえず存在する、人を思わず殺してしまうホンカのどうしようもない性を描いていく。

酒におぼれアルコール中毒のような状況になり、身を持ち崩す人間はたくさんいる。理由は様々だろう。酒に逃げるような理由がある人間もいれば、どうしようもない人間もいる。そういった人間の中には日夜酒の力を借り、夜の相手を探しているものもいるかもしれない。時に不愉快なことがあれば、言葉ではなく暴力に訴える人間もいるだろう。

 

そういう意味で言えば、酒場で酒を飲み、娼婦を連れて帰る、そんなゴールデングローブで酒を飲んでいるときのホンカは凡庸な厄介な酒のみでしかない。探せばどこかの飲み屋にいそうな人間である。

 

本作のゴールデングローブで酒を飲んでいる酔いどれたちもホンカとはそう大差はない。酒場にやってきた若者のちょっとしたしぐさに怒りを感じ、尿を浴びせたり、飲んだくれて、いい年をして、わけもわからない男の「酒はある」という誘い文句についていってしまったり。

だが、ホンカは決定的にいびつな部分がある。それは容易に他者の命をうばい、それに対して何ら良心の呵責を感じていなさそうなところだ。本作ではバックボーンには触れず淡々とホンカが抱えている社会との微妙なずれを描き出していく。

バーゴールデングローブでは優良な常連客には二つ名がつくのだが、ホンカだけは、二つ名がついていないことが示唆されている。周囲にいる人間も人畜無害だとは思いつつも、どこか違和感をかんじているのではないか、ということが示唆される。

また、くりかえしになるが、ホンカが真人間に戻ろうとする場面があるのだが、それはもう人間を何人も殺した、つまり取り返しがつかなくなってから起こっている改心なのである。

であるからこそ、現代でもどこかにホンカのような人間が潜んでいるのではないかといいう嫌な感覚を見たものに想起させる不気味さが本作にはある。

決して見ていていい気分のする映画ではないが、いわゆる娯楽作品の一つとして、シリアルキラーとして消費される人間の実像、そして社会とどのように向き合っているのか、その実態に迫った作品であったように感じた。

 

 

 

 

*1:映画や当時の資料などをみるとホンカ本人は意図に殺害したわけではないようである。被害者も男としてモテないという事情があったホンカ相手にされる女性は高齢の娼婦という事情もあったようだ

*2:海外のウィキペディアなどをみると、強制収容所で過ごしたあと、児童養護施設で過ごした、とする情報もある。養護はできないが、アルコールに逃げるには十分な理由もあったようである

*3:現在もハンブルクに残っている

サイコゴアマンを見た

 新宿シネマートで公開中の映画、サイコ・ゴアマンを見た。80年代90年代の低予算特撮作品が好きだった少年が大人になり、当時やりたかったことをやりたい放題やり切った感じのあるすがすがしい作品だった。

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勝気な少女ミミ(8)は兄ルークと庭でクレイジーボールに興じていた。*1勝気なだけでなく極悪非道なミミはクレイジーボール対決に負けた兄ルークを罰ゲームとして庭に生き埋めにしようとする。

これから自分が生き埋めにされる穴を自分で掘る、兄ルーク。しばらく掘り進めていると、中心に赤黒く光り輝く宝石がはめ込まれた、謎の箱を掘り当てた。実はその箱には遥か数千年前、宇宙のすべてを破壊しつくそうとした”悪夢の公爵”と呼ばれる残虐な宇宙人が封じ込められていた。

箱に興味を持った、ミミは「イーニーミーニーマイニーモー」と言葉遊びをしながら箱をいじっていく。すると、宝石がぽこっと取れてしまう。実は、適当な言葉遊びが”悪夢の公爵”の封印を解く暗号だったのだ。

よみがえった”悪夢の公爵”は近くにあった廃工場に向かい、ホームレスを”黒魔術”や圧倒的な暴力で皆殺しにしてしまう。残虐な宇宙人によって地球は阿鼻叫喚の地獄絵図となるかと思いきや……。

ミミが手に入れた宝石は、残虐宇宙人を有無言わさず操ることができるものだった。廃工場に訪れたミミは散らばるホームレスの肉片は意に介さず、残虐宇宙人の圧倒的なパワーに目を輝かせる。

ミミは残虐宇宙人にサイコ・ゴアマンと名付け、どこへ行くにも従えていく。ミミは遊び相手になってくれたり、宝石の力を使えば、なんでも言うことを聞いてくれるサイコ・ゴアマンとの生活を満喫。一方、一時はミミを殺そうとするサイコ・ゴアマンだったが、自由奔放なミミに翻弄されてしまっていた。

そんなミミの元に、サイコ・ゴアマンから宝石奪還を命じられた彼の部下”暗黒の勇士”たちや残虐宇宙人の覚醒を察知した正義の宇宙怪人パンドラの魔の手が迫ろうとしする。

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といった感じのストーリー。ただし基本的にあまり意味はない。別に改心した残虐怪人とのハートフルストーリーが展開されるわけでも、なんでもない。過酷な環境で奴隷同然に過ごしていたサイコ・ゴアマンの人生に触れ、ミミが成長するわけでもない。

画面の中で繰り広げられるのは様々な特撮作品への愛に満ちたパロディ、ローテクだが手の込んだ、怪人たちとのゴアバトル、そしてお母さんが謎の液体を飲んで怪人に変身、怪人のパワーで友達が化け物に、といった小学生が授業中に自由帳に落書きしていたような内容だ。

やはり魅力はスティーブン・コスタンスキ監督自らも制作にあたった、手作りの怪人たち。主役のサイコゴアマンや敵役のパンドラのシンプルにかっこよさを追求した見た目もいいし、暗黒の勇士たちの死体満載酸性風呂 デストラッパーやサイコ・ゴアマンの魔術で目玉のついた巨大な脳みそのような化け物に変化させられてしまったミミの思い人アラスターくんのようなコミカルでかわいげのある化け物たち、どれも手が込んでいていい。(細かいキャラクターのバックボーンはパンフレットに書いてあるので、買うといい)

また、サイコ・ゴアマンすら霞むミミの残虐非道っぷりもよい。自らの兄を苛め抜き、時にはサイコ・ゴアマンの力を使い、殺そうとすらする。自分の望み通りにするために。思い人を化け物に変えてしまう。天上天下唯我独尊、キリストも神も正義もくそったれ、という突き抜けたクソガキっぷりだった。

合間合間に挟まれる、善良ながらも、事なかれ主義な兄ルークの情けない姿。従軍のあと腑抜けになりニート同然のようになりながらもプライドはいっちょ前にある父、そんな父に振り回され、疲れ果てている母の姿も妙にリアルでよかった。

大人が本気でふざけ切ったような痛快な映画で最後まで中だるみせず、ポンポンと続いていく良作である。

 

 

 

 

*1:合間合間に挟まれる謎のスポーツ。公式ホームページに解説がある。こちらも子供が一生けん命ふざけて考えたようでいい。

『サイコ・ゴアマン』オフィシャルサイト

写経で文章がうまくなりたい 岡庭容疑者の半生に関して

 コツコツ写経は続けているのだが、ブログにまとめるのが面倒くさくなって早3か月くらいたってしまった。人はこうして堕落していく。

 正味4か月くらい写経を続けているが、自分の文章が上手くなったのかどうかはやはりよくわからない。誰かに見てもらったほうが良いのだろうか。

 ただ、週刊誌や新聞社の記事などをみる機会が増えたので、ちゃんと校閲が入っている媒体とそうでない媒体の違いくらいはわかるようになった。細かい助詞や表現が統一されているか。誤字脱字がないか。人道的な観点、あるいは事実かどうかという点などで怪しい点のある箇所がカットされているか、うまく表現が変えられているかどうかとか。

 新聞社は基本的にこういうところは問題がないのだが、出版社では大きなところでも誤字脱字があったりするのが、面白い。

 ということがわかったのは進歩だといえるのだろうか。

 

 前置きが長くなってしまったのが、そろそろ本題にはいるとするか。

 今日写したのは、文芸春秋社のウェブメディア文春オンラインに投稿された記事

『「また何か起こすと思った」茨城一家殺傷の岡庭容疑者(26)が金属ワイヤーを隠し持っていた理由』という記事である。

 2019年9月、茨城県境町で当時小林光則さん(当時48)と妻の美和さん(同50)が刃物で殺害された。2021年5月7日その容疑者として逮捕された、無職・岡庭由征容疑者(26)。その犯行に至るまでの軌跡を追った記事だ。

 岡庭は約10年前、未成年女児への通り魔事件を起こし、世間を騒がせた。当時10代だった岡庭は地元三郷市で中学3年生の女子生徒の顎を突き刺し、翌月には千葉県松戸市内で小学校2年の女児の脇腹を刺した。女児二人は幸い命はとりとめたが、岡庭は家に金属製のワイヤーを持っており、当初は殺害をワイヤーで首を切断し、そのまま持ち帰るつもりだったという。

 この時、検察側は反省の態度が見られないことから、懲役5年から10年の不定期刑が妥当だと判断した。だが、岡庭は広汎性発達障害であるため逮捕はされず、医療少年院に送致された。結果として岡庭は更生するどころか、さらに大きな事件を引き起こしてしまったわけだ。

 つまらない言い方ではあるが、記事で絵が描かれた岡庭の姿は異常としか映らなかった。だが一方で「ケーキを切れない非行少年たち」など最近発表された「何か援助が無ければ”普通”に生きられない人達」という存在が描かれた作品などを読むと、岡庭にもなにか別の道があったのではないかと思えてしまう部分もある。異常な人間として岡庭のような存在を消費してしまうことで、一定数いる、どこか偏りのある人間が抱える苦悩や彼らが社会に適応するうえでの問題を見過ごしてしまうことにはならないだろうかとも、思えてしまう。

 もちろん、日本は法治国家なので罪は罪として償うべきであるし、家族を殺された遺族からすれば、岡庭が死んだところで許せるものではないと思うが。

 

bunshun.jp

最近読んだ本 まとめ『テスカトリポカ』『聖の青春』『パルプ』など

 最近読んで面白かった本をまとめておく

 

佐藤究 テスカトリポカ

 

テスカトリポカ (角川書店単行本)

テスカトリポカ (角川書店単行本)

 

 

各種媒体で絶賛されていたので読んだ。率直にいうととんでもないものを読んでしまったという感想を抱いた。

主人公は二人。一人は日本人ヤクザとメキシコ人母の混血児の少年、土方小霜(物語中は基本コシモ)だ。母はシャブ中で育児などままならなず、父からは暴力を振るわれる、という過酷環境で暮らす。だが、たぐいまれな彫刻のセンスと、長身で筋骨隆々、神がその身にやどったかのような恵まれた体躯を持っている、という少年だ。もう一人はメキシコの麻薬カルテル、ロス・カサソラス(カサソラ兄弟、てな意味)を治めるカサソラ兄弟の3男バルミロ・カサソラ。一応この二人がメインなのだが、コシモの社会的な親ともいえる存在になっていくペルー人の父と日本人の母を持つ、ナイフ職人の青年パブロ、ふとした気のゆるみで全てを失い、バルミロとともに、裏社会を歩むことになった天才心臓外科医末永、知らず知らずのうちにバルミロたちの悪事の片棒を担ぐことになっていく保育士宇野など、登場人物それぞれに見せ場があり、群像劇的な物語にもなっている。

理解者もおらず、孤独に暮らすコシモはあるとき父親に暴力を振るわれそうになったはずみで、両親を殺してしまう。少年院ではたぐいまれな彫刻の才能があることがわかるが、一方でひとひねりで人間を殺せてしまうような怪物的な力が備わっていることも明らかになっていく。

一方のバルミロは敵対マフィアからのドローン爆撃によって、兄弟、家族、全てをうしなう。自らが築いた密輸ルートをたどり、インドネシアにたどり着いたバルミロは復讐と再起を誓う。彼は雌伏の時を過ごす中で偶然出会った元天才外科医の末永と語り合い、子供の心臓を主な商品としたレッドマーケットの着想を得る。

そこから舞台は日本、川崎に移り、バルミロの野望を巡る話が進んでいく。バルミロは中国マフィアや中東の武装勢力、ヤクザの力を借り、臓器を売りさばくためのルートを築いていく。

そして、脛に傷のある人材を巧みに手駒に加え、徐々に組織を作り上げていく。時に薬物に手を出し、カネに困るプロパンガス販売会社の経営者に取り入り”ブツ”の運び人に仕立て上げる。

族への仕送りのため、自らの腕を活かせる現場を見つけるために苦悩する、ナイフ職人の青年パブロはその腕を買われ、バルミロに雇われる。自分の工房を得たことに喜ぶが実は自分が臓器を売りさばいたあとに余った頭骨や大腿骨などを加工する職人として使われていることを知り苦悩する。

心臓を抜かれる子どもを調達するのは宇野という女の仕事だ。彼女は元々、職員のほぼ全員がストライキするという過酷な職場で孤軍奮闘する保育士だった。善良に見える彼女だが、実はコカインでその辛さを癒しているという裏の顔がある。彼女は給料や”DV、虐待被害にあった子供”を助けるといった仕事内容にひかれ、バルミロたちの息のかかったNPO職員となり、本人の知らないうちに、子供たちを死地に送り込む役割を果たすようになる。

麻薬カルテルに限らず反社会的勢力と言えば、重要なのが暴力だが、バルミロはここもぬかりない川崎の自動車解体場(ヤード)では元殺人犯など、ならず者たちをあつめ、メキシコ仕込みの教育方法で、民間軍事会社の傭兵のような、戦略と技術をもつ殺し屋(シカリオ)へと育てていく。

そこに、少年院を出たコシモも加わる。純粋なコシモは自らのルーツにも関わるアステカ神話とその神々の神秘を語ってくれるバルミロをパドレ(父さん)と呼び、慕う。バルミロもたぐいまれな身体能力と純粋さからか、コシモを寵愛し、エル・パティブロ(断頭台の意)と特別な名を付け、息子のようにかわいがる。コシモは次第に、シカリオたちに交じり、新たなバルミロの”ファミリー”の一員として過ごすようになるのだが………。

といったのが大まかな物語の流れ。

 

本作のすさまじい点の一つはとにかく緻密な犯罪描写だといえるだろう。

言葉巧みなバルミロによって、殺し屋や医師、保育士、職人など様々な人材が集っていく様は、黒いオーシャンズといった雰囲気もある。バルミロ自らはエル・コシネロ(調理師)、末永はラバラバ(蜘蛛)といったようにそれぞれをコードネームで呼び合うところも年甲斐もなくワクワクしてみてしまった。

ただ、もちろん、麻薬カルテルに関わる犯罪描写はそれだけではない。敵対者を生きたまま拷問にかけ、心臓を抉り出して殺す様や、バルミロがエル・ポルポ(粉)という呼び名で呼ばれていた際の拷問の仕方など、とにかく殺し、暴力の描写も緻密だ。

そして、子供たちの心臓を中心としたレッドマーケットである。臓器から骨、血の一滴にいたるまで、いつ、どのような形で誰が、どのくらいの値段で買われていくのか。人間が金に換えられていく姿も、克明に描写されていく。

そこに上手く、登場人物の背負う業やタイトルにあるテスカトリポカ(煙を吐く鏡)を神の一つとする血なまぐさいアステカの神話が絡み合っていくのだ。

凄惨でグロテスクで、基本的には救いようがない話だが、すっとするような読後感のある作品だった。

 

聖の青春 大崎善生

 

聖の青春 (角川文庫)

聖の青春 (角川文庫)

 

 

読もう読もうと思っていて、読む機会がなかったのだが、ついに読んだ。

言わずと知れた名作。

29歳の若さでこの世を去った羽生世代の名棋士村山聖九段(追贈)。

プライベートでも親交の深かった、元将棋世界の編集長の大崎善生氏がその人生を描いたのが本作である。

ネフローゼという難病に体を蝕まれながらも、戦った棋士、ということで実写映画化されるなど色々な物語にされたり、モチーフになったであろうキャラクターが出たりもする村山九段。

だが、本作はそうした物語的な側面を描写するというよりは、ノンフィクションらしく、村山九段の棋譜や師匠である森信雄氏や友人である、先崎学九段など周囲にいた人間たちの声、そして大崎氏自らの経験を探りながら、たんたんと、その棋士人生(=人生)を振り返るものだった。

小さい頃、病床で仲良くなった友人たちが次々になくなり、自分も20歳までは生きられない告げられる、という環境で過ごし、寝込むと3日間は動けなくなる、ちょっとした病気でも命にかかわる、そんな体をおして、生き馬の目を射抜くような勝負師の世界で生きる。どれほどの苦悩があっただろうか。あるいはそれを支えた将棋に向ける情熱とはどれほどのものだったのだろうか。

たんたんとつづられていくからこそ、故村山九段の人生、生き様に想いを馳せてしまう

、そんな一冊だった。

 

パルプ チャールズ・ブコウスキー

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 

ブコウスキーの死の直前に発表された作品。すがすがしいくらい、しょうもない人間たちの人生が描かれていく。主人公はさえない中年探偵ニック・ビレーン。飲んだくれで競馬が趣味というしょうもないこの男のもとに、死の貴婦人と名乗る目もくらむような美女が「赤い雀」を探してほしい、という奇怪な依頼を持ちかけてきたことから、人生が、微妙に変わっていったり、いかなかったりする、という物語。

SFやファンタジーが絡んだり、いろいろな作風がリンクするのだが、とにかく全てがくそったれな感じである。

ビレーンは作中ずっと変わらず、さえないデブの中年探偵のままである。死が目前にせまり、突然人生の目的に目覚めたり、事件を通して自らの生活をあらためたりもしない。かっこいい決め台詞をつぶやき、依頼人を惚れさせたりもしない。

「おまえのケツを押さえつけたぞ!」という決め台詞を吐くのだが、別にお見事解決、といくわけでもない。成功したり、失敗したり、ビレーンはただただ目の前の些事に右往左往し、そして最後はしょうもない理由で死んでいく。

パルプという、いわゆるパルプマガジン(低俗なフィクションを扱った雑誌)をオマージュした名前の通り、本作は最初から最後まで徹頭徹尾、くそったれでしょうもない。

とはいえ、人生というのは本来こんなものなのかもしれない。

突然成功したりもしない。成功者があっという間に浮浪者と見まごうような落伍者になったりもしない。悪人が突然改心したりもしないし、善良とされる人間が、実は吐き気をもよおすような邪悪な人間であることもほとんどない。ドラマチックなことは人生には基本的には起こらない。

日々の生活を振り返ってみても、家賃とか携帯の支払いはどうするか、嫌いな上司の顔を見ないためには、微妙な距離感の同僚とは仲良くしたほうが良いのか。昼飯は何を食うのか、晩御飯は、でも金がないな、給料が安い、でも環境を変えたところでどうなるのだろうか、セックスしたい、とか。ああでもない、こうでもないと、しょうもないことばかり考えている。

世の中の大半のことはしょうもない、くそったれなことばかりである。しかも、それはだいたいの場合どうにもならない。いくらきれいごとを言っても、結局、そのしょうもなさを受け入れたり、受け入れられなかったりしながら、どこかでばったり死ぬまで生きていくしかない。

そんな当たり前のことを改めて、感じさせてくれる一作だった。

 

スノーピアサー ドラマ版 少々引き伸ばし気味な感じも

 紹介

 韓国の監督の作品ドラマ版

 スノーピアサーの話1034両の列車の中にエコロジーシステムを再現したようなモノ

 本作の舞台となるのは巨大列車スノーピアサー。近未来、大寒波で滅びた世界では、ウィルフォード産業が作った、永久エンジンを搭載する、巨大列車スノーピアサーが唯一人間の生きることのできる環境だ。

 スノーピアサーの乗客は基本的には乗車券を手に入れられた限られた人間のみだ。購入したチケットの代金に応じて住んでいる車両、清掃が掛かりや列車の修理係、治安維持要因など役割も決められており、絶対的な階層社会となっている。列車には乗客以外のイレギュラーな存在も乗り込んでいる大寒波を逃れるために、チケットを持たずにスノーピアサーに乗り込んだものたちだ。彼らは最後尾の配給される真っ黒な寒天状のプロテインバーが主な食事、まともに清掃されることもない、といった劣悪な環境で過ごしており、最後尾人(テイリ―)と呼ばれさげすまれている。少しの暴動すら彼らには許されていない。まっているのは暴力、場合によっては、極寒の車外に腕を無理やり出され、凍結した腕を砕くという残酷な仕打ちが待ち受けている。

 主人公は、最後尾人たちのリーダーである、アンドレ・レイトン。最後尾人の仲間たちとともに、革命を起こそうとしていたところ、列車内で給仕係が殺害され、ペニスを切り取られる、という怪事件が発生する。前方車両の人間に顔を知られておらず、かつ前職は警官だったという経歴から、アンドレは客室係のメラニーに車内探偵の役割を与えられ、事件を追うことになる。事件を追う中で車両を自由に行き来できるという探偵の特権を利用し、着々と革命の準備を進めていくアンドレは、その中で徐々に隠されたスノーピアサーの謎に迫っていく。というのがシーズン1のストーリー。

 革命が成功した後のアンドレ体制を描くシーズン2では、社内の政治に奔走されるアンドレメラニーたちの姿、そして明らかになるウィルフォード氏の存在。そして、雪解けが迫る世界が描かれていくといった内容になっている。

 原作映画は絶対的な階級社会にあらがう姿を約100分くらいかけて一気に描きあげている。シーズン1は原作に準じるところもありつつ、サスペンス要素を足した、という感じだったが、シーズン2は社内での政治や、地球の雪解けを巡る動き、メラニーと子であるアレクサンドラ(アレックス)との愛憎、列車の本来の主であるウィルフォード氏との戦い、最後尾人たちと触れ合うようになった、乗客たちが時に自らの罪に向き合い、時に自らの本心に気が付く、そんな変化と成長を描いており、てんこ盛りの内容という感じだった。

 

 シーズン3もすでに決まっているようである。ウィルフォード氏との戦いはひとまず小休止、という形で終わったシーズン2。この後はどうなるのだろうか、楽しみである。

 

スノーピアサー(字幕版)

スノーピアサー(字幕版)

  • 発売日: 2014/06/07
  • メディア: Prime Video