生活

日々の生活のことを書きます

柴犬

 柴犬が、ベビーカーに乗せられていた。

 ベビーカーに乗った柴犬は、まっすぐ前を見つめ、誇らしげだった。

 ベビーカーを押しているのは30代前半ぐらいのショートヘアーの女性。本来乗っているはずの赤ちゃんを背中におぶっていた。

 なぜこうなったのか、理由は全くわからない。だが、かわいい。

 自分が幸せだと感じる事象には大きく分けて二パターンあると思っている。

 一つは、こうした突然訪れるたぐいのものである。他には道端で猫が待ち構えていた、とか。落としたはずの物が無事に手元に戻ってきた。なくしものが見つかった、とか。

 もう一つは狙いが当たった時である。コンビニで新発売のおにぎりを買ったらうまかった、とか。立てたスケジュール通りにその日1日が終わった、とか。

 どちらがより幸せに感じるのかは時と場合によるが、ベビーカーにのった柴犬との遭遇はなかなかに自分の中でポイントが高かったようだ。遭遇しsてから1週間くらいたっているのだが、いまだに思い出すと口角が上がってくる。

 金とか成功とかはいつどうなるのか、全くわからないものである。見方によってもどうなるか、わからない。まあ、そもそも無縁ではあるのだが……。

 とにかく、こうしたこまごまとした幸せを大事にしたい。

わかってしまうと人は狂う

 新型コロナウイルス禍はいまだに収まりそうな気配はない。一方で共存できそうな雰囲気もない。とはいえ、一気に世界の人口が半減したり、世の中が終わりそうな雰囲気もない。何がどうなっているのか、結局専門家も確定的な答えを出せず、ただグダグダ、ぐずぐずした中でコロナ以前とは若干変わった日常が続いている。私自身は、まあなるようになるし、どうしようもなくなる時はどうしようもなくなるか、くらいの若干あきらめた気持ちで過ごしている。今の現状を理解しようにも公表されているデータくらいしかわからないし、医学的な知識も全くないので、考えるだけの知識もない。かといって、世の中の現状を憂うことができるほど、生活に余裕もないからである。

 だが、世の中を見てみると、専門家でもなく、語る言葉ほどの言葉も本来ないはず(例えば全く医学の知識がないのに医学の話をするとか)なのに、いっちょがみをしようとしているのを見ることが増えた。しかも、それが最低限論理的な整合性が取れていればいいのだが、やれワクチンを打つと5Gにつながれるだ、最近だと爆発してしまうとか、コロナは風邪、という話もそうかもしれない。逆もしかりで。度合いにより蹴りだが、場合によっては発狂しているとしか思えないような言葉をネット上などで発言している人もいる。なぜなのだろうかと考えてしまう。

 ブラッドボーンというゲームがある。過去に何度もプレイした好きなゲームである。ダークソウルシリーズを手がけたフロムソフトウェアが開発したソフトで、クトゥルフ神話がモチーフのゲームだ。ここで描かれているテーマの一つが、簡単に言ってしまえば、世界の”真理”に気が付いてしまった、目覚めてしまった人間は狂ってしまう、ということだと私は思ってプレイをした。

 これはあくまでエンタメなので楽しめるのだが、ふと、考えてみると、このゲームで描かれたような世の中の心理に気が付いてしまって発狂してしまっている人が、増えているように思えてならない。別にそれで自分の生活がどうなるわけでもないのだが。

写経で文章がうまくなりたい 岡庭容疑者の半生に関して

 コツコツ写経は続けているのだが、ブログにまとめるのが面倒くさくなって早3か月くらいたってしまった。人はこうして堕落していく。

 正味4か月くらい写経を続けているが、自分の文章が上手くなったのかどうかはやはりよくわからない。誰かに見てもらったほうが良いのだろうか。

 ただ、週刊誌や新聞社の記事などをみる機会が増えたので、ちゃんと校閲が入っている媒体とそうでない媒体の違いくらいはわかるようになった。細かい助詞や表現が統一されているか。誤字脱字がないか。人道的な観点、あるいは事実かどうかという点などで怪しい点のある箇所がカットされているか、うまく表現が変えられているかどうかとか。

 新聞社は基本的にこういうところは問題がないのだが、出版社では大きなところでも誤字脱字があったりするのが、面白い。

 ということがわかったのは進歩だといえるのだろうか。

 

 前置きが長くなってしまったのが、そろそろ本題にはいるとするか。

 今日写したのは、文芸春秋社のウェブメディア文春オンラインに投稿された記事

『「また何か起こすと思った」茨城一家殺傷の岡庭容疑者(26)が金属ワイヤーを隠し持っていた理由』という記事である。

 2019年9月、茨城県境町で当時小林光則さん(当時48)と妻の美和さん(同50)が刃物で殺害された。2021年5月7日その容疑者として逮捕された、無職・岡庭由征容疑者(26)。その犯行に至るまでの軌跡を追った記事だ。

 岡庭は約10年前、未成年女児への通り魔事件を起こし、世間を騒がせた。当時10代だった岡庭は地元三郷市で中学3年生の女子生徒の顎を突き刺し、翌月には千葉県松戸市内で小学校2年の女児の脇腹を刺した。女児二人は幸い命はとりとめたが、岡庭は家に金属製のワイヤーを持っており、当初は殺害をワイヤーで首を切断し、そのまま持ち帰るつもりだったという。

 この時、検察側は反省の態度が見られないことから、懲役5年から10年の不定期刑が妥当だと判断した。だが、岡庭は広汎性発達障害であるため逮捕はされず、医療少年院に送致された。結果として岡庭は更生するどころか、さらに大きな事件を引き起こしてしまったわけだ。

 つまらない言い方ではあるが、記事で絵が描かれた岡庭の姿は異常としか映らなかった。だが一方で「ケーキを切れない非行少年たち」など最近発表された「何か援助が無ければ”普通”に生きられない人達」という存在が描かれた作品などを読むと、岡庭にもなにか別の道があったのではないかと思えてしまう部分もある。異常な人間として岡庭のような存在を消費してしまうことで、一定数いる、どこか偏りのある人間が抱える苦悩や彼らが社会に適応するうえでの問題を見過ごしてしまうことにはならないだろうかとも、思えてしまう。

 もちろん、日本は法治国家なので罪は罪として償うべきであるし、家族を殺された遺族からすれば、岡庭が死んだところで許せるものではないと思うが。

 

bunshun.jp

最近読んだ本 まとめ『テスカトリポカ』『聖の青春』『パルプ』など

 最近読んで面白かった本をまとめておく

 

佐藤究 テスカトリポカ

 

テスカトリポカ (角川書店単行本)

テスカトリポカ (角川書店単行本)

 

 

各種媒体で絶賛されていたので読んだ。率直にいうととんでもないものを読んでしまったという感想を抱いた。

主人公は二人。一人は日本人ヤクザとメキシコ人母の混血児の少年、土方小霜(物語中は基本コシモ)だ。母はシャブ中で育児などままならなず、父からは暴力を振るわれる、という過酷環境で暮らす。だが、たぐいまれな彫刻のセンスと、長身で筋骨隆々、神がその身にやどったかのような恵まれた体躯を持っている、という少年だ。もう一人はメキシコの麻薬カルテル、ロス・カサソラス(カサソラ兄弟、てな意味)を治めるカサソラ兄弟の3男バルミロ・カサソラ。一応この二人がメインなのだが、コシモの社会的な親ともいえる存在になっていくペルー人の父と日本人の母を持つ、ナイフ職人の青年パブロ、ふとした気のゆるみで全てを失い、バルミロとともに、裏社会を歩むことになった天才心臓外科医末永、知らず知らずのうちにバルミロたちの悪事の片棒を担ぐことになっていく保育士宇野など、登場人物それぞれに見せ場があり、群像劇的な物語にもなっている。

理解者もおらず、孤独に暮らすコシモはあるとき父親に暴力を振るわれそうになったはずみで、両親を殺してしまう。少年院ではたぐいまれな彫刻の才能があることがわかるが、一方でひとひねりで人間を殺せてしまうような怪物的な力が備わっていることも明らかになっていく。

一方のバルミロは敵対マフィアからのドローン爆撃によって、兄弟、家族、全てをうしなう。自らが築いた密輸ルートをたどり、インドネシアにたどり着いたバルミロは復讐と再起を誓う。彼は雌伏の時を過ごす中で偶然出会った元天才外科医の末永と語り合い、子供の心臓を主な商品としたレッドマーケットの着想を得る。

そこから舞台は日本、川崎に移り、バルミロの野望を巡る話が進んでいく。バルミロは中国マフィアや中東の武装勢力、ヤクザの力を借り、臓器を売りさばくためのルートを築いていく。

そして、脛に傷のある人材を巧みに手駒に加え、徐々に組織を作り上げていく。時に薬物に手を出し、カネに困るプロパンガス販売会社の経営者に取り入り”ブツ”の運び人に仕立て上げる。

族への仕送りのため、自らの腕を活かせる現場を見つけるために苦悩する、ナイフ職人の青年パブロはその腕を買われ、バルミロに雇われる。自分の工房を得たことに喜ぶが実は自分が臓器を売りさばいたあとに余った頭骨や大腿骨などを加工する職人として使われていることを知り苦悩する。

心臓を抜かれる子どもを調達するのは宇野という女の仕事だ。彼女は元々、職員のほぼ全員がストライキするという過酷な職場で孤軍奮闘する保育士だった。善良に見える彼女だが、実はコカインでその辛さを癒しているという裏の顔がある。彼女は給料や”DV、虐待被害にあった子供”を助けるといった仕事内容にひかれ、バルミロたちの息のかかったNPO職員となり、本人の知らないうちに、子供たちを死地に送り込む役割を果たすようになる。

麻薬カルテルに限らず反社会的勢力と言えば、重要なのが暴力だが、バルミロはここもぬかりない川崎の自動車解体場(ヤード)では元殺人犯など、ならず者たちをあつめ、メキシコ仕込みの教育方法で、民間軍事会社の傭兵のような、戦略と技術をもつ殺し屋(シカリオ)へと育てていく。

そこに、少年院を出たコシモも加わる。純粋なコシモは自らのルーツにも関わるアステカ神話とその神々の神秘を語ってくれるバルミロをパドレ(父さん)と呼び、慕う。バルミロもたぐいまれな身体能力と純粋さからか、コシモを寵愛し、エル・パティブロ(断頭台の意)と特別な名を付け、息子のようにかわいがる。コシモは次第に、シカリオたちに交じり、新たなバルミロの”ファミリー”の一員として過ごすようになるのだが………。

といったのが大まかな物語の流れ。

 

本作のすさまじい点の一つはとにかく緻密な犯罪描写だといえるだろう。

言葉巧みなバルミロによって、殺し屋や医師、保育士、職人など様々な人材が集っていく様は、黒いオーシャンズといった雰囲気もある。バルミロ自らはエル・コシネロ(調理師)、末永はラバラバ(蜘蛛)といったようにそれぞれをコードネームで呼び合うところも年甲斐もなくワクワクしてみてしまった。

ただ、もちろん、麻薬カルテルに関わる犯罪描写はそれだけではない。敵対者を生きたまま拷問にかけ、心臓を抉り出して殺す様や、バルミロがエル・ポルポ(粉)という呼び名で呼ばれていた際の拷問の仕方など、とにかく殺し、暴力の描写も緻密だ。

そして、子供たちの心臓を中心としたレッドマーケットである。臓器から骨、血の一滴にいたるまで、いつ、どのような形で誰が、どのくらいの値段で買われていくのか。人間が金に換えられていく姿も、克明に描写されていく。

そこに上手く、登場人物の背負う業やタイトルにあるテスカトリポカ(煙を吐く鏡)を神の一つとする血なまぐさいアステカの神話が絡み合っていくのだ。

凄惨でグロテスクで、基本的には救いようがない話だが、すっとするような読後感のある作品だった。

 

聖の青春 大崎善生

 

聖の青春 (角川文庫)

聖の青春 (角川文庫)

 

 

読もう読もうと思っていて、読む機会がなかったのだが、ついに読んだ。

言わずと知れた名作。

29歳の若さでこの世を去った羽生世代の名棋士村山聖九段(追贈)。

プライベートでも親交の深かった、元将棋世界の編集長の大崎善生氏がその人生を描いたのが本作である。

ネフローゼという難病に体を蝕まれながらも、戦った棋士、ということで実写映画化されるなど色々な物語にされたり、モチーフになったであろうキャラクターが出たりもする村山九段。

だが、本作はそうした物語的な側面を描写するというよりは、ノンフィクションらしく、村山九段の棋譜や師匠である森信雄氏や友人である、先崎学九段など周囲にいた人間たちの声、そして大崎氏自らの経験を探りながら、たんたんと、その棋士人生(=人生)を振り返るものだった。

小さい頃、病床で仲良くなった友人たちが次々になくなり、自分も20歳までは生きられない告げられる、という環境で過ごし、寝込むと3日間は動けなくなる、ちょっとした病気でも命にかかわる、そんな体をおして、生き馬の目を射抜くような勝負師の世界で生きる。どれほどの苦悩があっただろうか。あるいはそれを支えた将棋に向ける情熱とはどれほどのものだったのだろうか。

たんたんとつづられていくからこそ、故村山九段の人生、生き様に想いを馳せてしまう

、そんな一冊だった。

 

パルプ チャールズ・ブコウスキー

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 

ブコウスキーの死の直前に発表された作品。すがすがしいくらい、しょうもない人間たちの人生が描かれていく。主人公はさえない中年探偵ニック・ビレーン。飲んだくれで競馬が趣味というしょうもないこの男のもとに、死の貴婦人と名乗る目もくらむような美女が「赤い雀」を探してほしい、という奇怪な依頼を持ちかけてきたことから、人生が、微妙に変わっていったり、いかなかったりする、という物語。

SFやファンタジーが絡んだり、いろいろな作風がリンクするのだが、とにかく全てがくそったれな感じである。

ビレーンは作中ずっと変わらず、さえないデブの中年探偵のままである。死が目前にせまり、突然人生の目的に目覚めたり、事件を通して自らの生活をあらためたりもしない。かっこいい決め台詞をつぶやき、依頼人を惚れさせたりもしない。

「おまえのケツを押さえつけたぞ!」という決め台詞を吐くのだが、別にお見事解決、といくわけでもない。成功したり、失敗したり、ビレーンはただただ目の前の些事に右往左往し、そして最後はしょうもない理由で死んでいく。

パルプという、いわゆるパルプマガジン(低俗なフィクションを扱った雑誌)をオマージュした名前の通り、本作は最初から最後まで徹頭徹尾、くそったれでしょうもない。

とはいえ、人生というのは本来こんなものなのかもしれない。

突然成功したりもしない。成功者があっという間に浮浪者と見まごうような落伍者になったりもしない。悪人が突然改心したりもしないし、善良とされる人間が、実は吐き気をもよおすような邪悪な人間であることもほとんどない。ドラマチックなことは人生には基本的には起こらない。

日々の生活を振り返ってみても、家賃とか携帯の支払いはどうするか、嫌いな上司の顔を見ないためには、微妙な距離感の同僚とは仲良くしたほうが良いのか。昼飯は何を食うのか、晩御飯は、でも金がないな、給料が安い、でも環境を変えたところでどうなるのだろうか、セックスしたい、とか。ああでもない、こうでもないと、しょうもないことばかり考えている。

世の中の大半のことはしょうもない、くそったれなことばかりである。しかも、それはだいたいの場合どうにもならない。いくらきれいごとを言っても、結局、そのしょうもなさを受け入れたり、受け入れられなかったりしながら、どこかでばったり死ぬまで生きていくしかない。

そんな当たり前のことを改めて、感じさせてくれる一作だった。

 

やる気がでない

やる気があるとは何だろうか。瞳孔が開いている感じ。あるいはとにかくひたすら手を動かしている姿。そんなことを思い浮かべるだが、実際のところ、やる気というよりは属している集団によっては、当たり前に求められることだったりもする。

今はやる気があるとかないとか、どーでもよく、成果を出せば生きている価値あり。出せなければやる気があろうがなかろうが、どうしようもない奴。そういった評価を下されるような職場で働いている。もちろん、直接的に言うとコンプライアンス上まずいのか、成果が出せなければ直接言われず、裏でこそこそ「あいつはしょうもない」と噂される程度ではあるのだが。

自分はというと、成果を出せるか出せないかに非常にむらがあるみたいだ。自分ではそんなにきにしていないのだが。70点を取り続けるというよりは、0点と80点くらいを行ったり来たりしているみたいだ。そんな感じなので、この前やんわりと仕事終わりに「もう少しやる気」を出してください。といったようなことを言われてしまった。

だからということもあるが、今ぼんやりとやる気とか、やる気がある状態について考えてしまっているのかもしれない。個人的にはやり切った仕事だったのだが、仕事を振った先方の都合で「なしで」となってしまったものだった。

そっちの都合でめちゃくちゃにしておいて、やる気もなにも無いだろう。と思ってしまったのだが、冷静に考えると、そうでもしないと彼の溜飲が下がらなかったのかもしれない。自分の思い通りにならなかったのはお前のやる気がないから、ということにしておけば、いろいろなものから目を背けられるもんな。こちらとしてはいい迷惑だが。

やる気とはなんなのだろうか。一人称で使う時にも何かの対象に使う時にもイマイチ定義もあいまいで、都合がいいもののような気もする。やる気なんか出さないで、求められているものになんとか応えられるだけの努力をしていきたいものである。

インターネットで人の人生を見るのが好きだ

 インターネット黎明期からどっぷりつかっているというわけでもなく、今の若年層のように、ネットネイティブ世代というわけでもないので、自分がどれくらい好きなのか、客観的には把握できないのだが、インターネットは比較的好きだ。ウィキペディアを延々と深堀した理、Youttubeどこかの誰かが、作ったハウツーとかを見ているのも楽しい。無限に時間をつぶせるし、ブログやSNSなどの投稿を見ると、人の人生が垣間見えてとても面白い。インターネットでは基本的に匿名なので(匿名ではない人も増えたが)、匿名でないと明かせないような自分の人生の在り方を赤裸々に語る人も多い。

 ギャンブルで大負けして、数百万とかあほみたいな額の借金を背負い、かといって返す当てもないので、踏み倒したり、返したりしながらチキンレースのような生活をしている人とか。本物の変態とか。経歴詐称したけれどなんとかうまくいっている人とか。ひもとか。普通に生きているだけでは決して出会うことのない人たちが確かにそこにいる。ちょっと仕事が行き詰ったり、人生に悩みを抱えているときに見ると一服の清涼剤のようでいいのだ。

 人の人生を垣間見るというと、ノンフィクションの映像作品や書籍を見ればいいという話もあるのだが。よほどのことがない限り、作り手の脚色があるとはいえ、描かれているのは確かにそこにある、あるいはそこにあったある程度事実が担保された出来事だ。おもしろいというよりは、身につまされてしまったり、自分の人生を振り返ってしまったり、演出が過剰な番組を見てしまうと、怒りを覚えてしまったり、全く精神状態によくない。インターネットがいいのは、事実か嘘かが決してわからない場合が多いということだ。そうはいっているけれど、実は違うかもしれない。悲惨な生活ではないかもしれないな、という留意がおけることで、なんだか突き放したものとしてみることができる。まあ悪趣味かもしれないが、自分の中でちょうどいい距離感が取れるのだ。だから、見ていて少しすくわれたような気がする。

 とかとか書いている間に、無駄に時間が経ってしまったので

時間の使い方が上手くわからない

 仕事が忙しい。忙しいともらえるお金が増えるのでいいことなのだが、本を読んだり、ゲームをしたり、ぼーっとする時間を作ったりすることができない。生まれてこの方、受験勉強をしたとき以外は、これくらいの忙しさはなかったので、仕事以外の何もできなさにいささか戸惑っている。受験勉強の場合は、人によって何年かは決まっていないが、司法試験のように、難易度が異様に高かったり、しっかりとした雇用につく言い訳になりそうなもの以外は、だいたいは終わりが決まっている。受かるか、落ちてあきらめるかだ。

 だが、仕事の場合はそうもいかない。これから後何十年生きるのかはわからない、世の中のしくみがどうなるかもわからないが、おそらく30年以上は続くはずだ。年金がもらえるかもわからないし、もっと長く続くかも。

 忙しさも、たぶんそれほど変わらないだろう。むしろもっと忙しくなるかもしれない。そう考えた時、果たして時間をどうとればいいのだろうか。

 私はしっかり眠らないと、ポンコツになってしまうタイプなので、とにかく6時間くらいは眠るように時間を確保している。そうなると、食う寝る垂れる以外は仕事をしているような状況だ。他のことができない。仕事の勉強時間をとるのも少し難しい。

 少し寝るのを我慢して、時間を確保するべきなのか。なれればもっと早く仕事をこなせるようになり、時間が確保できるのか。今のところはよくわからない。もう少し頑張ってみるか。