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写経で文章がうまくなりたい5 cakesのホームレス記事について

 cakesに掲載された夫婦のライターユニット「ばぃちぃ」氏の執筆記事がSNS上で炎上した騒動からだいぶ日もたった。炎上させたい人、ちゃんと議論をしている人、研究者、ライター、編集者など様々な視点から意見も出てきたように思うので、ここいらで個人的に気になったものをまとめてみる。

 というわけで、以下の二つの記事を写経してみた。

 一つは騒動後比較的すぐでた、中国天安門事件のその後を描いた『八九六四 天安門事件は再び起きるか』で第50回大家壮一ノンフィクション賞を受賞したことでも知られる、ノンフィクション作家・安田峰敏氏が文春オンラインに寄せた『キラキラ夫婦がつるし上げ…豚解体風呂とホームレス記事”炎上”事件から考える言論の自由』という記事。

 タイトルは煽情的だが、安田氏が今後公開する予定のアパートの風呂場で豚を解体し逮捕されたベトナム人らの仲間から話を聞いたルポ作品や八九六四など氏の作品を引き合いに出し、そもそもルポ、ノンフィクションとはどういう仕事なのか、出せば必ず誰かを傷つける、不快思わせる可能性がある表現物に対して、作者やそれを掲載する媒体側はどのように考える必要があるのか、そして今回の炎上騒動で時に罵声すら飛ばしながら、ばぃちぃ氏やcakesに対して批判を寄せた研究者や作家らの行動のぜひについて、氏の考えをまとめたものだった。

 大まかに氏が誌面で記した考えをまとめると、作品の良し悪しに関する議論は全くの別(安田氏自身もばぃちぃ氏の記事の出来が良いとは語っていない)として、すでに名のある書き手や本職の研究者たちが、差別的な表現や取材手法を用いず作られた作品を執筆者を人格否定するような言説まで用いて貶める、表現の場所すら失いかねないような攻撃までするのはおかしいのではないか、自分たちの頸を絞めているのではないか、ということだろう。

 作品の内容について言及したものには、ルポライターで『再貧困女子』などで知られる鈴木大介氏が現代ビジネスに寄せた『炎上ホームレス記事、何が「問題の核心」なのか本職ルポライターが語った』などがあった。

  こちらはばぃちぃ氏の作品のどこに問題があったのかを鈴木氏のサブカル誌でいわゆる裏モノライターとしてホームレスや裏稼業人の取材者をしていたところから社会派ルポライターに転じた経歴を織り交ぜながら、氏の考えについて語り、そして、そもそも作品の出来以前にあるウェブメディア界隈の問題について記したものだった。

 鈴木氏によれば、従来サブカル誌での需要は”見世物小屋的な露悪趣味”のものあるが、実利に沿ったものもあったそう。つまり、住所がないのに携帯をどう使えるようにするのか、仕事は(ホームレスはジョブレスではない)という明日、もしかしたら使える知識を伝えるという目的もあったのだという。鈴木氏自身、記事執筆のための取材活動に純粋な学びを感じ取っていたという。そして当該ばぃちぃ氏の記事にもそうした憧憬や知的好奇心が感じられるし、露悪趣味は感じられない、けれども、彼らの記事は肯定という。つまりそこから先に彼らがいわゆる普通の生活から断絶するに至った、時に正視できないほど切ない彼らの個人史にまで踏み込み、その一歩先を見据える姿勢が書き手として足りていないと指摘する。

 また、もう一つの大きな問題としてあるのが、ばぃちぃ氏の記事に賞を与えたcakesの姿勢だ。果たして賞に足るべきか、そもそもメディアとしてこの記事を載せるべきか、書き手の姿に共感できたのであれば、記事が載せるに足るクオリティになるまで指導するなり、道筋を示すなりするのがメディアの役割ではないかと鈴木氏は指摘している。

 確かに紙のメディアと違い、ウェブメディアでは編集者や校閲、査読者の不在を指摘する声も大きい。そういった部分も今回の問題の背景にはあるのかもしれない。

 記事の内容はいまいちだが、越えてはならない一線を越えてはいないのにあそこまでたたかれるのはおかしい。そもそもホームレスの支援どころか、町中で話しかけようともしない人間が燃えているときだけしたり顔で出てきて、当事者に石を投げるのは偉そうでむかつく。そう、個人的にも思っていたので、自身の気持ちが言語化されたような記事だった。ただ、今回の記事にまつわる騒動に関しては一抹の不安というか、全く別の観点から嫌な気持ちもしている。

 正直なところ、ばぃちぃ氏の記事は特段怒られるような内容もないし、インターネットにはよくあるような記事のように思う。その題材の一つがホームレスというだけで、ここまで大きく取り上げられてしまうことの方がよほど問題にも感じた。

 切実に明日は我が身と感じている人間がおり、他方ではその生活や個人史を気にすることもなく、ホームレスの一側面だけを取り上げてコンテンツ化することをよしとしてしまう人間もいる。その中間にいる人間が少なくなったのか、社会の断絶が一層進んでいることの一面が垣間見えた問題なのではないかとも感じてしまった。世知辛い世の中になったものである。