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最近読んだ本 まとめ『テスカトリポカ』『聖の青春』『パルプ』など

 最近読んで面白かった本をまとめておく

 

佐藤究 テスカトリポカ

 

テスカトリポカ (角川書店単行本)

テスカトリポカ (角川書店単行本)

 

 

各種媒体で絶賛されていたので読んだ。率直にいうととんでもないものを読んでしまったという感想を抱いた。

主人公は二人。一人は日本人ヤクザとメキシコ人母の混血児の少年、土方小霜(物語中は基本コシモ)だ。母はシャブ中で育児などままならなず、父からは暴力を振るわれる、という過酷環境で暮らす。だが、たぐいまれな彫刻のセンスと、長身で筋骨隆々、神がその身にやどったかのような恵まれた体躯を持っている、という少年だ。もう一人はメキシコの麻薬カルテル、ロス・カサソラス(カサソラ兄弟、てな意味)を治めるカサソラ兄弟の3男バルミロ・カサソラ。一応この二人がメインなのだが、コシモの社会的な親ともいえる存在になっていくペルー人の父と日本人の母を持つ、ナイフ職人の青年パブロ、ふとした気のゆるみで全てを失い、バルミロとともに、裏社会を歩むことになった天才心臓外科医末永、知らず知らずのうちにバルミロたちの悪事の片棒を担ぐことになっていく保育士宇野など、登場人物それぞれに見せ場があり、群像劇的な物語にもなっている。

理解者もおらず、孤独に暮らすコシモはあるとき父親に暴力を振るわれそうになったはずみで、両親を殺してしまう。少年院ではたぐいまれな彫刻の才能があることがわかるが、一方でひとひねりで人間を殺せてしまうような怪物的な力が備わっていることも明らかになっていく。

一方のバルミロは敵対マフィアからのドローン爆撃によって、兄弟、家族、全てをうしなう。自らが築いた密輸ルートをたどり、インドネシアにたどり着いたバルミロは復讐と再起を誓う。彼は雌伏の時を過ごす中で偶然出会った元天才外科医の末永と語り合い、子供の心臓を主な商品としたレッドマーケットの着想を得る。

そこから舞台は日本、川崎に移り、バルミロの野望を巡る話が進んでいく。バルミロは中国マフィアや中東の武装勢力、ヤクザの力を借り、臓器を売りさばくためのルートを築いていく。

そして、脛に傷のある人材を巧みに手駒に加え、徐々に組織を作り上げていく。時に薬物に手を出し、カネに困るプロパンガス販売会社の経営者に取り入り”ブツ”の運び人に仕立て上げる。

族への仕送りのため、自らの腕を活かせる現場を見つけるために苦悩する、ナイフ職人の青年パブロはその腕を買われ、バルミロに雇われる。自分の工房を得たことに喜ぶが実は自分が臓器を売りさばいたあとに余った頭骨や大腿骨などを加工する職人として使われていることを知り苦悩する。

心臓を抜かれる子どもを調達するのは宇野という女の仕事だ。彼女は元々、職員のほぼ全員がストライキするという過酷な職場で孤軍奮闘する保育士だった。善良に見える彼女だが、実はコカインでその辛さを癒しているという裏の顔がある。彼女は給料や”DV、虐待被害にあった子供”を助けるといった仕事内容にひかれ、バルミロたちの息のかかったNPO職員となり、本人の知らないうちに、子供たちを死地に送り込む役割を果たすようになる。

麻薬カルテルに限らず反社会的勢力と言えば、重要なのが暴力だが、バルミロはここもぬかりない川崎の自動車解体場(ヤード)では元殺人犯など、ならず者たちをあつめ、メキシコ仕込みの教育方法で、民間軍事会社の傭兵のような、戦略と技術をもつ殺し屋(シカリオ)へと育てていく。

そこに、少年院を出たコシモも加わる。純粋なコシモは自らのルーツにも関わるアステカ神話とその神々の神秘を語ってくれるバルミロをパドレ(父さん)と呼び、慕う。バルミロもたぐいまれな身体能力と純粋さからか、コシモを寵愛し、エル・パティブロ(断頭台の意)と特別な名を付け、息子のようにかわいがる。コシモは次第に、シカリオたちに交じり、新たなバルミロの”ファミリー”の一員として過ごすようになるのだが………。

といったのが大まかな物語の流れ。

 

本作のすさまじい点の一つはとにかく緻密な犯罪描写だといえるだろう。

言葉巧みなバルミロによって、殺し屋や医師、保育士、職人など様々な人材が集っていく様は、黒いオーシャンズといった雰囲気もある。バルミロ自らはエル・コシネロ(調理師)、末永はラバラバ(蜘蛛)といったようにそれぞれをコードネームで呼び合うところも年甲斐もなくワクワクしてみてしまった。

ただ、もちろん、麻薬カルテルに関わる犯罪描写はそれだけではない。敵対者を生きたまま拷問にかけ、心臓を抉り出して殺す様や、バルミロがエル・ポルポ(粉)という呼び名で呼ばれていた際の拷問の仕方など、とにかく殺し、暴力の描写も緻密だ。

そして、子供たちの心臓を中心としたレッドマーケットである。臓器から骨、血の一滴にいたるまで、いつ、どのような形で誰が、どのくらいの値段で買われていくのか。人間が金に換えられていく姿も、克明に描写されていく。

そこに上手く、登場人物の背負う業やタイトルにあるテスカトリポカ(煙を吐く鏡)を神の一つとする血なまぐさいアステカの神話が絡み合っていくのだ。

凄惨でグロテスクで、基本的には救いようがない話だが、すっとするような読後感のある作品だった。

 

聖の青春 大崎善生

 

聖の青春 (角川文庫)

聖の青春 (角川文庫)

 

 

読もう読もうと思っていて、読む機会がなかったのだが、ついに読んだ。

言わずと知れた名作。

29歳の若さでこの世を去った羽生世代の名棋士村山聖九段(追贈)。

プライベートでも親交の深かった、元将棋世界の編集長の大崎善生氏がその人生を描いたのが本作である。

ネフローゼという難病に体を蝕まれながらも、戦った棋士、ということで実写映画化されるなど色々な物語にされたり、モチーフになったであろうキャラクターが出たりもする村山九段。

だが、本作はそうした物語的な側面を描写するというよりは、ノンフィクションらしく、村山九段の棋譜や師匠である森信雄氏や友人である、先崎学九段など周囲にいた人間たちの声、そして大崎氏自らの経験を探りながら、たんたんと、その棋士人生(=人生)を振り返るものだった。

小さい頃、病床で仲良くなった友人たちが次々になくなり、自分も20歳までは生きられない告げられる、という環境で過ごし、寝込むと3日間は動けなくなる、ちょっとした病気でも命にかかわる、そんな体をおして、生き馬の目を射抜くような勝負師の世界で生きる。どれほどの苦悩があっただろうか。あるいはそれを支えた将棋に向ける情熱とはどれほどのものだったのだろうか。

たんたんとつづられていくからこそ、故村山九段の人生、生き様に想いを馳せてしまう

、そんな一冊だった。

 

パルプ チャールズ・ブコウスキー

 

パルプ (ちくま文庫)

パルプ (ちくま文庫)

 

 

ブコウスキーの死の直前に発表された作品。すがすがしいくらい、しょうもない人間たちの人生が描かれていく。主人公はさえない中年探偵ニック・ビレーン。飲んだくれで競馬が趣味というしょうもないこの男のもとに、死の貴婦人と名乗る目もくらむような美女が「赤い雀」を探してほしい、という奇怪な依頼を持ちかけてきたことから、人生が、微妙に変わっていったり、いかなかったりする、という物語。

SFやファンタジーが絡んだり、いろいろな作風がリンクするのだが、とにかく全てがくそったれな感じである。

ビレーンは作中ずっと変わらず、さえないデブの中年探偵のままである。死が目前にせまり、突然人生の目的に目覚めたり、事件を通して自らの生活をあらためたりもしない。かっこいい決め台詞をつぶやき、依頼人を惚れさせたりもしない。

「おまえのケツを押さえつけたぞ!」という決め台詞を吐くのだが、別にお見事解決、といくわけでもない。成功したり、失敗したり、ビレーンはただただ目の前の些事に右往左往し、そして最後はしょうもない理由で死んでいく。

パルプという、いわゆるパルプマガジン(低俗なフィクションを扱った雑誌)をオマージュした名前の通り、本作は最初から最後まで徹頭徹尾、くそったれでしょうもない。

とはいえ、人生というのは本来こんなものなのかもしれない。

突然成功したりもしない。成功者があっという間に浮浪者と見まごうような落伍者になったりもしない。悪人が突然改心したりもしないし、善良とされる人間が、実は吐き気をもよおすような邪悪な人間であることもほとんどない。ドラマチックなことは人生には基本的には起こらない。

日々の生活を振り返ってみても、家賃とか携帯の支払いはどうするか、嫌いな上司の顔を見ないためには、微妙な距離感の同僚とは仲良くしたほうが良いのか。昼飯は何を食うのか、晩御飯は、でも金がないな、給料が安い、でも環境を変えたところでどうなるのだろうか、セックスしたい、とか。ああでもない、こうでもないと、しょうもないことばかり考えている。

世の中の大半のことはしょうもない、くそったれなことばかりである。しかも、それはだいたいの場合どうにもならない。いくらきれいごとを言っても、結局、そのしょうもなさを受け入れたり、受け入れられなかったりしながら、どこかでばったり死ぬまで生きていくしかない。

そんな当たり前のことを改めて、感じさせてくれる一作だった。