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「デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場」栗城史多にとってのデスゾーンとは何だったのか。

 

 

 

登山家の故栗城史多氏(35)は「冒険の共有」を合言葉に、自らカメラを回し登山の様子を撮影、時にはインターネットで生中継するという劇場型の登山スタイルで、生前、注目を集めた。

「七大陸最高峰単独無酸素登頂」を目指し、挑戦を続けた彼の姿に、多くの人間が熱狂した。一方、栗城氏は何度もエベレストに挑戦するものの、いつも途上で登頂を断念。その登山スタイルや実力に疑問が投げかけられていた。彼は晩年、エベレスト登頂中に負った凍傷により、右手の親指以外の9本の指(第二関節から先)を失う。それでも、挑戦を続けた。

素人目に見ても危うい挑戦には「無謀」「自殺行為」といった非難の声も投げかけられるようになる。そして彼は9本の指が無い手で8度目のエベレストに挑み、命を落とした。客観的に見れば、自殺行為としか言いようがない。何が彼を無謀な挑戦に駆り立てのか。

『デス・ゾーン 栗城史多のエベレスト劇場』は栗城氏のドキュメンタリー制作にも関わっていた、北海道放送ディレクターの河野啓氏が栗城氏の実像に迫った一冊だ。

 

本書で描かれる栗城氏の姿は、一言で言えば「若き起業家」だ。断じて登山家ではない。北海道の一大学生に過ぎなかった栗城氏は元手も伝手もないなか、言葉の巧みさと天性の明るさ、押しの強さで大学教授や有名起業家の目に止まり、のし上がっていく。時にマルチ商法で知られるアムウェイの広告塔になり、時に怪しい天然水を売りにする企業から融資を受け、したたかな姿も見せる。その存在は大手メディアの人間にも知れ渡るようになり、彼は一躍時代の寵児に……。ここだけ見れば、何者でもなかった一人の若者が成り上がっていく痛快な物語だ。ただし、彼が売りにしたのは、登山という命がけの活動であり、

 

彼がセールスした商品は、彼自身だった。その商品には、若干の瑕疵があり、誇大広告を伴い、残酷なまでの賞味期限があった。

『デス・ゾーン 栗城文多のエベレスト劇場』 p.8

 

本書では自らの登山活動を冷静に値踏みし、巧みに喧伝していく栗城氏の姿が描かれている。トレーニングは絵になるものを選び、練習中、運動不足のせいか倒れ、苦しむ。そんな無様な姿は映させない。エベレストの山中でも、とにかく面白さにこだわり、キャンプ地で凧揚げをしてその姿を中継するなどといい始める。果ては実力が足りないと言われても、難度の高いルートを選んでしまう。

彼が掲げた「七大陸最高峰単独無酸素」というスタイルにも演出があった。そもそも7000メートル以下の山では酸素を基本的には使用しないのだという。そして七大陸最高峰で7000メートルを超えるのはエベレストだけだ。どうやら指9本を失った凍傷も演出の一環だったことも本書では示唆されている。晩年は指9本を失い、日常生活では介助が必要な時もあったようだ。それでも挑戦を続けた、しかしながら、決して登山が好きでも得意でもなかったようだ。大学の登山部の練習にすらついていけないような状態であったことも本書は明らかにする。

 

彼の作り上げた虚像はどんどんと大きくなった。「ニートアルピニスト」の二つ名の名付け親である、日本テレビの土屋敏夫プロデューサーなどメディアの人間たちやインターネットの力を借りて。彼もそれを望んだのだろう。だが、作り上げた虚像は本人の予想を超えて大きくなりすぎてしまったのかもしれない。

本書で描かれる栗城氏の姿は毎日ドンペリを飲み、高級マンションで暮らし、「秒速で1億稼ぐ」とのたまった与沢翼氏の姿とかぶって見えた。二人に共通するのは自らをコンテンツ化し、のし上がっていくも、大きくなりすぎた虚像によって押しつぶされたという点である。

与沢氏は毎月100万が飲み代に消えると豪語していたが、その実態は豪華な生活を喧伝することで儲けたカネでまた散在するという自転車操業。サクラを使い、生活を脚色して見せていたこともあったという。結局与沢氏は、法人税を滞納し、自身の会社を倒産させ、住んでいた高級マンションの家賃も払えず、引き払うことになる。

栗城氏と与沢氏が違うのは、失敗し、自分の本当の姿を見せざるを得なくなったことではないだろうか。与沢氏はホームレス同然の生活になった後、豪華に見えた生活のほとんどが演出だったと自ら白状した。「酒はドンペリから、ウーロンハイに変えた」「月に10万あれば暮らせる」「居酒屋で友人に慰められている」と彼は自らの飾らぬ姿をメディアにさらし、そして再起を果たした。*1

一方の栗城氏は、幾度となく実力に疑問の声が投げかけられ、その実力不足や無謀な挑戦が公然の事実となり、命の心配をされてもなお、本当の姿を見せることはしなかった。できなかったのかもしれない。

事業における失敗はせいぜい資産を失う、借金を背負う、逮捕されるくらいだろう。よほどの恨みをかっていれば、別だろうが、命を奪われるようなことはない。

だが、栗城氏が商品にしていた登山での失敗は、特にエベレストのような極地の場合、死を意味する。栗城氏の挑戦は途上での断念はできても、失敗は許されないものだった。しかも、栗城氏は無謀とされる挑戦の途上で、幾度か仲間を失っていた。

栗城氏は、与沢氏のように、一度地に落ち、半ばやけっぱちになりながら、自らの本当の姿、苦悩を開陳する。そんな機会は訪れないし、許されない。仮に幕を引くにしても”劇的なものでなければ”と思っていたのかもしれない。本書を読み進めていると、栗城氏は登山家ではない次の人生を考えている節もあったらしいことがわかる。だが、それはかなわなかった。彼は、命を落とすまで無謀な挑戦に挑み続けてしまったのである。

 

本書のタイトルにある「デスゾーン」とは、8000メートル以上の人間が生存できないほど酸素濃度が低い高所領域を指す登山用語だ。だが果たして栗城氏にとってのデスゾーンとは本当にそこにあったのか*2。命を落とすような無謀な挑戦に挑まざるを得ない状況こそが栗城氏にとってのデスゾーンと言えたのではないか*3。自らの人生や命をコンテンツ化することで、何も持たない人間が、何者かになれてしまう。そして称賛と社会的承認も名誉も金も地位も手に入る。ただし何者かになったことで負うべき責任や代償を伴って。そんな現代の闇がいきつく、恐ろしい結末の一つとして、栗城氏の死があるのではないか。本書を最後まで読み進めてみて、そう思わざるをえなかった。

*1:与沢氏の現在に関してもいろいろとあることはここでは触れないでおく

*2:栗城氏は8度のエベレスト挑戦で一度もデスゾーンには到達していない

*3:本書の末尾では、栗城氏が自ら望んで死に向かった、そしてその要因は栗城氏の内面にあった、ととられかねないような書き方になっている。個人的には納得できなかった。彼を一時は祭り上げ、そしてその死にざまをコンテンツにした人間が、それを結末に持ってくるのはいかがなものかと思ってしまった。もちろん、末尾だけをとって本書の作品としての素晴らしさが棄損されるとは思わないが……